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花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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ぱすわーど沼の地獄から

 個人番号などのナンバーだけではない、パスワードと暗証番号、これが何が何やら分からなくなる。

 このごろは、電話番号も郵便番号も、一息気持ちを落ち着かせないと思い出せないことがある。

 今のところは、ぎりぎりついて行けるが、おそらく5年後には、その頃のITインフラには完全に取り残されるだろう。

 現在だって、スマトーホンを所有を前提と、いうような各種サービスは、横目で見ているしかない。

 こういうのは、老人にとって酷く不公平感を与える。

 とっくに云われ始めているけれど、こういう不親切は心理的に追い詰められるだけではなく、実害を被りかねない。

 さて、さてボクはどのくらいまで、やってゆけるのか?


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 何事も手作業、そういう世間は、見通しがよかった。

 パスワードの向こう側にゆけない老人は、呆然と立ちすくむしかない、いやな時代になった。






by ribondou55 | 2015-12-11 09:27 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 『先生と迷い猫』(監督・深川栄洋、2015年)を観てきた。

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 埼玉県の岩槻で実際にあった地域猫捜索の模様を記したノンフィクション「迷子のミーちゃん 地域猫と商店街再生の物語」(木附千晶著)を原案に、オリジナルキャラクターやストーリーを加えて映画化。「太陽」以来9年ぶりに映画主演を務めるイッセー尾形が、主人公となる頑固な元校長先生に扮した。校長職を定年退職し、妻に先立たれて一人暮らしをする森衣恭一。堅物で偏屈なことから近所でも浮いた存在で、訪ねてくるのは亡き妻がかわいがっていた野良猫のミイだけ。追い払おうとする森衣をよそに、ミイは毎日妻の仏壇の前に座っていた。そんなある日、ミイが姿を見せなくなり、気になって探し始めた始めた森衣は、同じようにミイを探す人々がいることを知り、その交流のなかで「いなくなってからでは伝えられない気持ち」に気付く。、「60歳のラブレター」「神様のカルテ」の深川栄洋監督がメガホンをとり、染谷将太、北乃きい、岸本加世子らが共演 (映画com より拝借して引用)

とてもいい紹介である、感謝。

 イッセー尾形は、前作『太陽』では、敗戦前後の昭和天皇を演じて、人間天皇へとうつりゆく時代の、「帝の孤独」を見事に演じた。

 今度は、一転して老いぼれ退職校長のひとりぽっちの悲哀を演じてみせた。

 この映画には、何人もの、ひとりぼっちが登場してくる。

 妻に先立たれた元校長、どうやら連れ合いのいなそうな美容院の店主(岸本加世子)、高校を中退したらしいクリーニング店の娘(北乃きい)、駄菓子屋の店主(ピエール瀧)、いじめに遭っている女子高生(久保田紗友)自動車の整備をしている(嶋田久作)そして、修道院に身を寄せる小学生、これらがそれぞれに「ひとりぽっち」、そのそれぞれの隙間をうめるかのように、日々猫のミイ(ドロップ)が巡り訪れるのであったが、ある日から唐突に姿を見せなくなる。

 ミイは、亡き妻(もたいまさこ)がかわいがっていた野良猫であった、元校長はミイを見かけるたびに亡くなった妻が思い出されるのである。

 元校長は、今や、やもめ暮らし、その上、周囲の人の目には退職後も変らずに「校長先生」であり続けている尊大で滑稽な老人として見えている。

 もちろん、元校長はエラそーに振る舞っているわけではなくて、そのようにしか生きられない不器用な人なのだが、誰からも敬遠されていることはわかっていても、他者とうまくつながることができない。

 よくある頑固者話でない、元校長には頑固であるための「根っこ」なんてないのだ。

 おそらく、元校長は亡き妻にたいして、何かしらの負い目のようなことを感じている。

 それ故に、ミイが目障りなのだ。

 で、追い出した。

 ところが、三毛猫ミイが姿を消すにいたって、毎日訪れて来てくれたミイがそれぞれの寂しさをいかに慰めていたかということに、元校長のみならず、みんなが気づく。

 一匹の野良猫に、それぞれがそれぞれに名前を付ける。

 一匹の野良猫は、それぞれにとって、かけがえない自分だけの猫なのであった。

 そこから、ばらばらだった人々が三毛猫探しに一つとなるという、お話。

 一匹の野良猫によって、猫探し仲間の間に心が通い出す、そういうお話。


 でもね、どんな事情かわからないが修道院から学校に通う小学生は、やっぱり、「ひとりぼっち」と、もともとは子ども好きな元校長は、よく分かっている、いるがどうしようもない、迷っているのは猫だけではないと、そういう風に映画は終わる。

 つまり、「ひとりぼっち」には果てしがないのだ。

 地味だが、いい映画だ。

 書き忘れた、小鹿祥吾君(染谷将太)は、いい感じだった、こういう「こころのいい」若者が、この世知辛い世の中に、沢山育ってくれるといいなあと、後期高齢者のボクは願う。

 それにしても、こういう動物が主役の映画、うまく演出?編集?するものだと、この作品でも感心した。







by ribondou55 | 2015-10-17 23:18 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 突然、あごの上部から頬にかけて腫れだした。

 還暦過ぎのおたふくかぜもないだろう。


 たぶん、・・・歯茎が傷ついてばい菌に感染したものか。

 あるいは、虫歯、歯槽膿漏・・・・、。

 医者嫌いであるから、今の所、「熱さまシート」を貼って、その上からマスクをしている。

 この暑さではマスクはつらいが、見た目も少しは改善できる。


 そんなわけで、家にこもっていればいいのに、妻が「わが母の記」(監督・原田眞人・2012)を観にゆくというので、深谷シネマまでお供した。

 手堅い映画でありました。そつなく、見事に泣かされました。


 井上靖という作家は、了見の狭いボクの読書の守備範囲には、まるで触れることがなかったというより、・・・・・。

 ボクが物心ついて、小説を読み始めた前後から、時折目にしたポートレイトからの印象では、一番とっつき辛いタイプの人のような感じで、ボクには関係ない人だと決めた。でも、物心つく前のガキの時分、「しろばんば」とか「あすなろ物語」とか、強制的感想文とか、やられたような、ぼうやりした記憶がある。でも、これは、どうでもいい。
 この、「見た目嫌い」は、司馬遼太郎についてもいえて、でも、「街道を行く」シリーズなどは、旅のガイドブックとして読んでしまうが、やはり、「エラそー」な口ぶりがちらちらみえて、気に入らない。
 もしかすると、新聞記者あがりの作家が嫌いのかも知れない。


 話を戻そう、昨今の報道をみていると、本当に「新聞」とその書き手はうさんくさい。


 ある成功した人気作家がいい年の大人になるまで、幼少年期に母親と別居した体験を「親に捨てれた」と長い間思い続け、このことが心の傷になってきた。ところが、まさしくその加害者であったはずのが惚け果て、過去と現在の境界が混沌とした今となって語り始めた「ことば」によって、当時の母の真情を作家は知る。そんな話で、捨てられた子の母恋物語である。

 よくやりますね、と思いつつ、でも泣けたのは、捨てられた子も、子を手放した親も、ともに「別れきれない、忘れきれない」という、母子物語にやられてしまうからだ。そして、それがいくら哀しいとおもっても、いづれか必ず、別れなければならないという生き物の定めから、誰も逃れられないということで二度泣ける。

 そんなこんなのことがあって、「姥捨山伝説」が引き合いにだされる。これが、この映画では嘘くさい。役所広司さんがうまいのでついだまされそうだが、あのお話を引き合いに出すのは無理があろう。

 映画中の「姨捨山」の絵本云々のエピソードは、あれは、「嘘」でしかない。小道具だ。この映画では心理的な親離れ子離れの凡庸な暗喩でしかない、と思うのだ。つまり、捨てれた子が、親を捨て返す、けれども、どうしても捨てきれない、そんなことだ。小説的な嘘というやつ、そんなものは、kizaで目障り。

 リアルな此の世では、きっちと棄てるのだ。

 「楢山」へおりんをおんぶして登った辰平の末裔は、今のこの国には、数え切れないほどいるのだ。

 しかし、おりんさんは、そうざらにはいない。樹木希林さんは勿論、おりんではない。そういうことにまでは、この映画は及んでいけない。

 ボクにも今、惚けた母がいて、これが、ときおり、非常に人のこころを揺さぶる言葉を吐くのだ。痴呆が理性を狂わせるというのは、あるかも知れないが、魂の「叡智」のようなものは、痴呆の混沌とした頭脳の中に、いつまでも散在し、暗く、或いは、明るく輝いている、とボクは思っている。

 樹木希林さんは、とてもよく呆けていた。

 でも、あれは、よくできた映画に過ぎない。

 そう思った。


 さて、今夜は麻婆茄子だ。今年最後の,自家菜園の茄子である。


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    梨剥きて耳とほきひとにすすめけり    李凡堂





 

 

by ribondou55 | 2012-08-31 18:08 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)