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by ribondou55
| 2019-10-19 22:44
| ちょっと、そこまで
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久々のポタリング。
夏の間、暑さにくじけてボクは、ぐうたらしていた。
ようやく、秋めいてきて、脇腹がタップタップしてたような気がして、ペタルを漕ぐ意欲が少し兆した。
この機を逃すまいと、老体にむち打つ感じで、行田方向へ向かった。
なぜ、行田か?
この方向が、昨日は、自転車にとって追い風になるからだ。
さて、さきたまの博物館までと、目論んだが、
ラグビーワールドカップの会場になっている熊谷ラクビー場の様子を覗いて置こうと、寄り道。
ここでは、全4試合のみだから、本日は試合はない。
それでも、まことに賑々しく開催中のこと推察され、ボクもなんとなくうれしくなった。
そこから、刈り取りの終えた田んぼを両脇に眺めながら、行田市街に向かった。
昼飯に寄ろうと思っていたラーメン屋を目指すのだが、道に迷った。
仕方なく、行田のメインストリートを羽生方向へと当てもなく走ってゆくと、我空薬師の入り口の標識があった。
ポタリングの面白さは、犬の散歩のように、道草すること。
といっても、マーキングはしない。
そこで、「我空薬師」に出会った。
「ガクウヤクシ」、おお、イイ感ジ、御利益ありそうと、お参りに行く。
比較的、小ぶりのお堂が建つ。

さて、由緒書きを一読し、驚嘆したり、ニヤリとしたり。

これは、ガクウヤクシではなく、「ガッカラヤクシ」様であったとは。
弘法大師はあちらこちらに通りかかられたようで、このガッカラ薬師様も弘法大師ゆかりの仏様であった。
「行田市研究2012」http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-87b2.html にこんな記事が。
第九話 ガッカラ薬師と霊泉長野我空薬師
長野公民館がございます。あの公民館の前を東へ、工業団地の方面へ向かっていきますと、右手に市立保育園がございます。その保育園の手前角を右へ曲がって、四,五十メートルほどの所に「ガッカラ薬師」といわれている小さなお堂がございます。昭和の初めまでは、この辺一帯は森に覆われていたと云います。小さいけれどもこのガッカラ薬師のお祭りは、盛んなものでした。森の中のお堂に、元禄十四年から薬師像が祀られていたといいますが、その前までは、姿のない薬師堂であったといいます。昔、弘法大師がこの地をまわられた時、人々を救うために薬師を祀るように言われ、この地を選んでよく浄め、仏の助けを祈念して一本の木を植えられました。「ここに薬師さまがお祀りしてあります。信仰の篤い人々が頼めば、必ずご利益を与えてくれるであろう。」と、こう言って立ち去りました。いつの頃からか、その木は光り輝き、夜道でも誤ることなく薬師堂にたどり着くことができたといいます。その後、木の根元から泉が湧き、この泉で入浴すると万病に効いたといいます。そして「薬師の井せい」と呼ばれ評判となりました。その頃からか、夜になるとどこからともなく森の中で「ガッカラ、ガッカラ・・・」と唐臼をひく音が聞こえてくるようになりました。その音が薬師さまからの音だというので「ガッカラ薬師」といわれるようになったようです。「薬師の井」は近隣に評判となり、埼玉、野、広田など遠くからも、この水をもらいに来る人が絶えませんでした。それがいつしかはしこい人間が目をつけるところとなって浴場を造ってしまいました。これがまた大繁盛し、次から次へと新しい浴場が造られ、この辺一帯が霊験あらたかな「霊泉の町」となってしまいました。何かまるで、現代のスーパー銭湯ブームを思わせるようですねえ。ついには遊楽街となり、いかがわしい湯屋までできるようになってしまいました。それが、今から二百八十年前も昔の享保の頃のことでございます。その浴場の権利のことで争いにまでなってしまったので、さすがに目に余ったのでしょうか。ついに忍城主、阿部豊後守四代、正喬侯はとうとうこの辺一帯の浴場を禁止してしまわれました。しかし「薬水」の効き目は衰えず、各地から信仰として水をいただきに来る人は非常に多かったといいます。正徳六年、千七百十六年といいますから、公衆浴場騒動の少し前のこと、この地に住んでいたお坊さんが亡くなったといいますので、このガッカラの森に葬りました。ところがその晩から葬った人たちがだれかれとなく高熱にうなされるようになりました。みなが「ここに死体を埋めて、薬師如来を穢けがし奉たてまつった罰ばつが・・・」と、高熱に狂いながら言いますので、坊さんの死体を違う場所に移しました。今度はたちどころに熱も引き、皆、元にもどったということです。この話が評判になり、ガッカラ薬師の信仰はますます広がっていきました、とさ。
あくまで、伝説としての紹介であるが、薬師堂前の格調高い由緒書きともほぼ重なる内容である。
面白い。
伝説にしても、謎多いお話で、全国にはこの類話のありやなしや?
一番面白いのは、この伝説を採録されたの方のおっしゃるとおり、聖水を汲んで沸かしてSPにした、この件である。
いかがわし湯屋まで出来たという、いいねえ。
由緒書きには「遊婦」とやや品良くあるが、つまりは「湯女」まで侍らせて、お湯三昧。
そうなら、霊験あらかた間違いなく、大抵の病も快癒したかも知れない。
阿部正喬というお殿様は、1672年から1750年までご存命、幕府の老中もお勤めになった。
元禄12年には寺社奉行にも就いている。
確かに、聖水SPには、眉をしかめたかもしれない。
まして、享保の吉宗政権下では、こりゃ駄目でしょう。
ともあれ、本来「我空」とは、立派な仏の教えである、
大乗仏教の根本思想である二空の一つ。人空,生空,人無我,衆生無我ともいう。一切の生類に心身があるとしても,色受想行識の五蘊 (ごうん) の集ったもので,実体としての自我というものはないとする見解。(ブリタニカ交際大百科事典)
いいですねえ。
そもそも、湯屋の始まりは、寺院が衆生斎度のための浴場だという。
仏との因縁浅からず。
聖と俗も表裏、両面あって、足し引きするとプラマイゼロで「我は空っぽ」となるやならずや。
ありがたや。
「我空薬師」
ボクはこのところ目がしょぼしょぼしたりするので、お賽銭をちょっとはずんで、手をあわさせていただいた。
南無我空薬師如来。
ラーメンは、初めての店で食べた、可も無く不可も無し。
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by ribondou55
| 2019-10-06 10:33
| ご近所巡礼記
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不染世間法 如蓮華在水 (法華経の一句)
このよく知られた経の一句をあげるまでもなく、桜とは違った意味で、蓮もボクラにとって特別な華である。
一茶の俳句はどのように人の目に映っているかわからないが、
彼は親鸞の教えを尊んだ念仏者であった。
ボクのあやふやな記憶であるが、
蓮華は、極楽に咲く華である。
浄土に往生することを、蓮華化生と法然はいわれたそうだ。
蓮華を形取った台座の上に、正しい信仰を得て、善行を積んだものは忽然と往生するのだそうだ。
であれば、念仏者一茶は、
阿弥陀様は、人の生き血を吸って生きてきた蚤であろうと、極楽へ導いてくださる、そう言いたいのだろう。
ボクも蚤。
彼も蚤。
ありがたいことだ。
※
華は、行田市の大賀博士の古代蓮。
数年前の撮影。
※
ところで、
「不染世間法 如蓮華在水」
この一句、
あの政権政党の信者さんにこそ思い出してもらいたのですが。
というのは、一言多いかな。
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by ribondou55
| 2019-07-11 17:22
| この一首その一句
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前線通過中のにわか雨の間をぬうように、高山市街から千光寺にむかった。
千光寺の円空仏寺宝館は、円空好きにとっては一度は訪ねてみたい所であるから、ボクの長年の思いがかなったのだ。
ここの仏さんのほとんどは、前のトーハクの展覧会でお目になっかかっている。
だが、博物館の展覧会場では、その仏が刻まれたその「場所」がどのような環境であったのかは想像もつかない。
千光寺の開創は約一千六百年前、当地の豪族両面宿儺によると伝えられている。
仏教寺院としては、一千二百年前に真如親王によって建立され、往時は多くの僧坊、伽藍が立ち並んでいたという。
飛騨の高野山ともいわれる真言宗の山岳寺院である。
境内からの眺めは、飛騨八景のひとつ。
この寺宝館の数ある名品のなかでも、「両面宿儺」像には圧倒される。
両面宿儺は日本書記のなかでこのように記述されていたいう、Wikipediaのよると、
六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるがひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した。
適当な画像がないので、トーハクのポスターを借用する、この像が「両面宿儺」である。
ほぼ、日本書記の記述通り、不動明王を思わせる面構えもある。
彼は、朝廷にとっては服ろわぬ厄介者であったが、飛騨の人々にとっては「スクナ様」とよばれ崇拝されていたとも云われている。
※
「両面宿儺」像は、円空仏としては極めて緻密な作品であると思う。
そのボリュームは、観るものに迫るものがあるのと同時に、そこはかとなくユーモアも感じられる気がするのだ。
どうみても、奇っ怪千万鬼神のごとき「朝敵」には見えない。
おそらくは、当時の人々が両面宿儺に寄せた親しみの感情に寄り添うように刻まれた像なのだろうと、ボクは思った。
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by ribondou55
| 2019-06-15 11:15
| 合掌
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宿から電話で、清峯寺円空仏を管理されておいでの方に、拝観のお願いをした。
約束の時間より20分ほど速く到着すると、清峯寺を管理されておらるAさんがすでに待っておいでだった。
Aさんからご当地の方々のご尽力で無住になった清峯寺と円空仏を維持管理されてきたという事をうかがいながら、円空仏に対面した。
ここの三体の仏像は、2013年にトーハクで拝観した。(この時の感想は、2013・1/25の本ブログ記載)
しかし、実際にそこで間近くお参りすると、ずっと身近に仏さんを感じることができた。

江戸時代・17世紀・十一面千手観音菩薩立像
左・江戸時代・17世紀、竜頭観音菩薩
Aさん(仮名)は、丁寧に説明して下さった。
ご本人自身も含めてこの地域の人々は、浄土真宗の信者さんであるとのこと、この三尊は観音さんであるから拝むことはないのだろう。
であるから、この地域の人にとっては、他宗派の清峯寺の管理も、いわんや、長年打ち棄てられてあった円空仏など見向きもしなくともよかったはずだ。
しかし、無住となり朽ちて行きかねないお寺をみるに見かねて、地域の人々がお世話してきた来たのだとうかがった。
清峯寺の御本尊の台座下に放置されていた古材同然のものを思いだし、その円空の仏に光をあてたこともたいしたものだ。
円空が世に知られるにつけて、この三尊の存在が広く知られると、このお寺を小生のようなお調子者も訪ねてくる。
その相手を、親切になさってくれる、ありがたいことだとと思った。
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by ribondou55
| 2019-06-14 14:06
| 合掌
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今年の春。
昨年の春。
一昨年の春。
一昨昨年の春。
・
・
ボクの春はすべて行ってしまった。
、
そして
この先に向うのは、そう遠くない、あれ。
諸行無常
今日も、目覚めが早い。
画像は、過日トーハクで、平等院の飛天。
※
竹山弘歌集「遐年」(2004年)より
『老いてこそ人生』といふ本を積み異界のやうに明るい本屋
半睡しゐたる机を立たむとす食はずともよき昼餉を食ひに
先をゆく足の飛び越えし溜り水よけてゆるゆる行かうぞ足よ
お元気でいいですわねと言わるるにちがひなからむ電話は止さう
あわれ八十四歳 原子爆弾の炎をくぐりしは前の世か
あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠ってよいか
(同歌人の第九歌集『眠ってよいか』2008年より)
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by ribondou55
| 2019-05-09 06:04
| この一首その一句
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訪ねた先は、以前一度立ち寄ったことのあるお寺であった。
このところの我ら夫婦、そろって呆けの進行がとまらない。
物忘れ、うっかりミス・・、その程度が笑い事で済ませられる内はよいのだが・・。
やあ、ここきたことあるね。
見飽きた顔を互いに改めて見直したのでありました。
このお寺は、曹洞宗、東国花の寺百ヶ寺の内の札所で、この観音様が御本尊。
菊女観音とお呼びする。
花のお寺の由縁は、このしだれ桜でありましょう。
この観音様、菊女とあるからには、元はお人、どんないわれがあって、観音様におなりかというと、こう寺のHPにある。
その昔、この地方を治めていた城主は小幡信貞(おばたのぶさだ)候と言います。
そして、腰元に美しく聡明な待女、お菊さまがおりました。
信貞候はこのお菊さまを寵愛し、片時も自分のそばから離そうとしませんでした。
そのため、奥方や他の腰元たちの嫉妬心は日に日に増し、信貞候留守中に奥方のお膳に針を落とし、それをお菊さまのせいにしてしまいました。
そして、お菊さまを菊が池で蛇責めの刑に処してしまいました。
お菊さま19歳、天正14年(1586)9月19日のことです。
その後、追善の供養が度々行われました。さらに明和5年(1768)万仭道坦禅師(ばんじんどうたんぜんし)や、大勢の人たちの努力により、菊が池に大権現としてお祀りされました。
それ以来成仏の功徳をもって、お菊さまは苦難にあえぐ人たちの支えとなることを誓い、その美しい姿は観音様として多くの人々に慕われています。
菊女伝説は、「番町皿屋敷」の1つの源流伝説でもあります。
おお、お菊様、憐れなようで怖ろしいようで、ここは南無南無南無。
とにかく観音様は千変万化、いろいろなお姿で我らをお救い下さる。
ありがたや。
どうぞ、この呆け夫婦の余生が安楽で在りますよう、合掌。
さて、観音様を拝んでいるのか、桜に願を聞き届けて頂きたいのかわかりますせんが。
参ったのは四月六日でありました。
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by ribondou55
| 2019-04-08 15:51
| ご近所巡礼記
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びわ湖巡りに買った青春18きっぷが三回分残っていた。
そこで、この陽気にさそわれてトーハクへ足を延ばした。
昔、よく行った御徒町のカレー屋で昼飯、忍ばずの池の淵からお山に登ってゆく、トーハクまでの道は上野公園一番の桜並木。
桜は既に終盤ながら人出は相変わらず、しかし、博物館は意外にお客さんが少なめ、ゆっくり丁寧に仏さん達にお会いできた。
結論で云えば、とてもよかった、楽しかった。
午後一時前に入館して、出たのは五時半だった。
もちろん、本館の平常展示もじっくり観ての滞在時間でアル。
この間の旅行では、湖北においでのあの渡岸寺の十一面観音を拝むことができた。
それは喜びであった。
この展覧会は、仏さんに会う楽しさをまたもや味あわせてくれた。
東寺の大日堂で朝の生身供に参拝したことがある。
もう何年も経ったような気もするが、この時の印象は鮮明にある。
そこでお舎利さんを授けていただいた。
ちょうど今頃のことで、朝の五時にホテルを出て、東寺まで歩いた。
まだ御影堂の前でおじちゃんおばちゃんが数十人、開門をまっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、思い出すと、懐かしいやら、ありがたいやら。
こんな風に書くと、信心深いよい人のようだが、そんなことはない。
邪心疑心の人間でアル。
だから、今の己を見直すといより、生き直すためのヒントを仏教から教えて貰いたいなあと、・・・。
本日の撮影可の仏様。
博物館の裏庭は今年も開放されていて、お花見客が沢山おいでであった。
本館二階のベランダからの裏庭の眺めはこんな風だった。
とても気分がよかった。
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by ribondou55
| 2019-04-05 23:16
| 目の快楽
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手持ちのデジカメの画像でいまいちであるが、3/29の知恩院の三門の内側のライトアップである。
この日、京阪電車で石山寺、三井寺、比叡山、日吉神社付近を巡ってから、びわ湖浜大津で乗りかえて東山で下車した。
夕飯を何処かで食べようと円山公園方向へぶらぶら歩くと、知恩院の門前が賑わっている。
三門の向かいの広い観光バス駐車場に止められない観光バスが神宮道に何台も路上駐車、売店は中国からのツワー客で大繁盛。
そこへ知恩院のお坊さんが、ライトアップ見物のついでに法話を聞いていきませんかと、呼びかけている。
この節、どこのお寺さんも必死だねというふうのが第一印象。
桜のライトアップといっても、花はまだ二分、三分、枝が桜色の照明に染まっている体のものであるが、拙妻は法話と聞いて心が動いたらしい。
で、幾許かの入場料を払って、夜間特別拝観へ。
画像はその折のもの。
夜の知恩院は初めて、それに安っぽいライトアップ、楽しいコトは楽しかった。
お説教も聴いた。
木魚をぽくぽく叩きながら、なんまいだぶなんまいだぶと唱えた。
阿弥陀如来はボクみたいな愚かなものも、南無阿弥陀仏と一心に唱えることがあれば、極楽浄土へとお連れくださると聴く。
しかし、ボクはぽくぽくやりながら一〇分間もお念仏を繰り返したのが、心底から一度だって「なんまいだぶ」が発せられたとはおもえない。
あたりまえだね、でもその程度の安直さが日本仏教ではとも。
南無阿弥陀如来。
結局、飯は京都駅前地下街の東洋亭でハンバーグを食った。
知恩院前から京都駅までの市バスはとてつもなく混み合った。
ほとんどが外国人観光客であった。
いつもながらおもうのだが、市バスの運転手さんお疲れ様。
▲
by ribondou55
| 2019-04-02 22:45
| 合掌
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by ribondou55
| 2019-03-31 22:57
| ご近所巡礼記
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