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 ほうれん草・人参・のらぼうな・タマネギ・ベビーリーフ、一斉に発芽。

 一安心。


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 よく雨が降るので、畑の蚯蚓の色艶がとてもいい。

 いまも、庭先から蚯蚓が鳴く声が聞こえている、でもだいぶよわよわしくなってきたようだ。

 秋はそれなりに深まっているのだろう。


 本当は蚯蚓ではなくバッタが鳴いているのだそうだ。

 ボクは、幼い頃、母からアレは、地虫の泣き声だと聞いた。

 地虫というのは、コガネムシなど甲虫類の幼虫を指すのだそうだ。

 ころっとした、芋虫みたいだが、真っ白で、堆肥を起こすと転がり出る、もの悲しい感じがするやつだ。

 ぽろっとこぼれ出る、あれだ。

 ・・・・、地虫が鳴く、・・・・、憐れ、・・・・、母の無い子、そんな気がしてくる。
 

 

 



 

by ribondou55 | 2016-10-02 23:52 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 子どもの頃、十五夜どろぼうをはたらいた。

 お供え物を盗み取るのだ。

 大人たちは、知らぬ振り。

 ハロウィンは子どもたちが仮装して、お菓子をもらい歩くというが、案外、アレに近かったかも知れない。

 ぼくのお袋は、その風習を嫌がった。

 だから、こっそり家を抜け出して悪ガキたちに合流するのだが、・・・・、家に帰るとお袋は怒ってはいなかったが、不機嫌そうな顔で待っていた。

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 今は合併して熊谷市であるが、以前は隣町だった「妻沼町誌」(昭和52年)には、「十五夜」の風習についてこうある。

 一般には小麦まんじゅう、またはぼたもちを作って、果物野菜など、縁側にしつらえた台の上に、ススキ、シオンの花(通称十五夜花)とともに月に供えて祭る.なお、供物は、十五とか、五つとかという数をあげる。昔、この夜村の悪童たちが、この供物をとってまわるという風習があった。

 ボクは、熊谷の郊外で育ったのだが、ボクラの村でも同様だった。

 いうまでもなく、ボクは悪ガキと云えるほどの子どもではなく、謂わば「金魚の糞」であったのだが、・・・・。

 十五夜がめぐってくると、あの夜のお袋の顔が思出される。


 我が家の十五夜は、昔ながらにススキとシオンを飾り、小麦であん入りの炭酸まんじゅうを供える。

 カミサンは、果物、野菜も必ず「五つ」を守って、今夜は畑でできたゴーヤまで五本だった。

 でも、さすがに南瓜は、ひとつなのだった。


 ススキとシオンは畑の脇に植えてある。

 このごろは、自生するススキも稀になり、ご近所さんも重宝している。










 

 

by ribondou55 | 2016-09-15 23:29 | この一首その一句 | Trackback | Comments(0)
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 梅雨時も旅

 花に迷い 

 蜜に誘われ


 では、「七野」とは、どこか?

 京都の「櫟谷七野神社」(いちいだにななのじんじゃ)の社伝によると、「平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
 その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。」とある。

 一茶は、これから京に上ってということか。

 
 画像の花は、秩父ミューズパークで、へメロカリス。

 へメロカリスとは、ギリシャ語のhemera(一日)とcallos(美)で、美しい花が一日でしぼむことから名づけられたそうな。



 
 
 

More この句について。
by ribondou55 | 2016-07-03 23:29 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 ふらりと、上州鬼石桜山に、冬桜の終いを見に出かけた。

 またも巡り来て、師走である。

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 冬桜は、咲き残りである。

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 むしろ、今の桜山は、見納めの紅葉。

  権中納言兼宗

    ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉も明日はしぐれと降りやまがはむ

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by ribondou55 | 2015-12-01 23:16 | この一首その一句 | Trackback | Comments(0)

針千本を呑み込んで

 

  一茶の句に、

  冬の夜や針うしなうておそろしき

 がある。小学館の古典文学全集の注には、蕪村の「身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む」が連想されるとあり、『「針」と「櫛」の違いや、「亡き妻」としてある点など、蕪村の方が手の込んだ趣向である』と解説されている。
 どちらの句を好みとするとかは、読み手次第でどうでもよい。
 ただ、ボクの感じでは、先の注釈者がこの二句を並べることに違和感がのこる。
 蕪村は、作りすぎだ、一茶の「おそろしき」のリアルさは、「身にしむや」という蕪村の狙う虚構の詠嘆とは、全く異質だ。
 蕪村は「櫛」に妻を偲ぶ夫と亡き妻の情愛の歴史性を象徴させるが、一茶の「針」にはこの瞬間の恐怖しかない。たかが「針」であるが、その失われた「針」が人の「神経」につき刺さると抜き差しならないような、一瞬の恐怖が背筋の辺りを走り、いてもたってもいたれないような思いになる。

 今日、新しい年が明けたが、ボクの神経には幾本もの「針」が紛れ込んでいて、時折深く屈託する一年になることは、疑いない。

    


   去年今年君の乳房をつねったり   李凡堂

   
by ribondou55 | 2006-01-01 23:57 | この一首その一句 | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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