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塩気に誘われてしまった。

食べ過ぎによい食べ物はない。

百も承知で、きりもなく。

湿度百%の気怠いこの季節を、乗り切るために?

イヤイヤ、これも老いるショックの一つの現象だろうか。

それと食感、ぱりっとさっくり、唾液がからめば、もっさりべっとり。

梅雨に効く。





by ribondou55 | 2019-06-30 22:43 | のらり句らり | Trackback | Comments(0)
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見ての通り、雑草が湧いてくる。




自分がこんな風に、猫の額ほどの菜園作りを続ける理由はなにか?

よく分からなくなってきたが、

この頃思うのは、

自分の手を汚して、汗を流して、ものを作る経験を持つこと、

これは、結構大切なのではないかというだ。

立派なキュウリ、収穫の多さを求めるのは欲だが、

物作りの経験から感じることは別にある。

土を耕し、種を蒔く、水をやり、日を仰ぎ雨を待つ、雑草を抜く、

毎年の繰り返しであるが、

そうすること無しに、オクラ一本、口にすることはできない。


とはいえ、

基本的に作物は、勝手に「自然」に従って育つようだ。

作物は、「植物」であるからだ。

その「植物」に依存する以外に地上の「動物」は生きてゆけない。

その「動物」の中で、人間だけが植物の栽培をする。

だが、「自然」の力の前では限界がアル。

ボクの狭い菜園もその力に支配されている。

この無力さも含めて、食べ物を作る経験を味わってみよう。

そんな感じか。









by ribondou55 | 2019-06-28 10:20 | 畑にいます | Trackback | Comments(0)

何という蒸し暑さ。

仕方ない、ビールにしよう。


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紫陽花や睡りと夢と死の間に  泡六堂

紫陽花燃ゆ黄昏青の滴れば

紫陽花と卵サンドを手土産に

紫陽花やすっぴんぶってる人に会う



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紫陽花は、森や林のかすかに日がさすくらいの所で、咲いていてほしい。

こんな明るい光も下では、困りものだ。


あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る   藤原定家

をとめ子は をとめさびせよ。紫陽花の 花のいろひは、さびしけれども    釈迢空


















by ribondou55 | 2019-06-26 17:38 | のらり句らり | Trackback | Comments(0)

所用で出かけた帰り道、拙妻は嵐山町に開園したラベンダー園に立ち寄りたいという。

又、今度は町興しにラベンダーかねと、ボクは皮肉な感想を持ったが、妻のご機嫌を損ねると、面倒なのでお供した。


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ラベンダーの香りは、蜜蜂ばかりでなく、ご婦人方をも魅了するらしい。

原田知世の「時をかける少女」では、ラベンダーの香りは物語の鍵になっている。

タイムトラベル・・・はて、ご婦人たちは、もしや、ラベンダーの香りに満たされると、大いに身も心もが若返るのだろうか?


で、ボクの感想としては、皆さんがお好きなら発する言葉はございません。


東武東上線武蔵嵐山駅からシャトルバスが出ている、また、関越自動車道嵐山小川ICからも近い。

入園料500円。ラベンダー摘み300円。


ラベンダー園のロケーションもいい感じだ。

この地を訪れた「公園の父」と呼ばれる本多静六が、武蔵嵐山と命名したのだそうだ。

本当に京都、嵐山を連想させる風景に出会える。


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流れるのは、都幾川。

また、歴史的にも興味深い土地柄で、おもしろいとこでアル。








by ribondou55 | 2019-06-25 22:27 | 咲いた咲いた何の花 | Trackback | Comments(0)
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畑にはミミズ、ナメクジから、十センチ余りの百足まで、多様な生きものが棲息する。

今朝は、ニホンアマガエル。

キュウリの葉の上で眠っているかのように、じっとしている。

その姿は、己の姿を見るようである。

でもボクは、蝦蟇の油カエルでないから、脂汗を流すことない。

ボクは井戸の底から丸い小さな空を眺めている老蛙である。


さて、此奴らはどこからやってくたのだろう。

我が自給菜園の近くには用水はもちろん、小川さえない。

オタマジャクシから手足を伸ばしたばかりで、

えんやらこんやらと、

この小さなサイズの生きものにとっては気が遠くなるほどの距離を移動してきたのだろうか。




どこかで、雨蛙は青虫を食べてくれると、いうような記事を読んだ記憶がある。

彼らは、肉食で、小さな蜘蛛や昆虫を食べる、生きたものをたべ、死んでいる奴は食べないのだそうだ。

いい奴でないか。

もしかすると、キュウリの天敵ウリハムシをパクリとやってくれているのかも知れない。

何処の世界でも、日頃はぼんやり眠たげでパッとしない人間が、一朝事あるときに、ただならぬ力を発揮したという、エピソードがある。

雨蛙クン、ぜひ是非によろしく。


憎ックキ奴とは、此奴だ。



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やられているのは、南瓜の花。






by ribondou55 | 2019-06-23 11:33 | 畑にいます | Trackback | Comments(0)

梅雨時の緑は、暗い空の下でかえって映えるものだ。


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 あとは、キュウリとスイカ。

 レタス。

 アスパラの葉の茂り。

 それに、枝豆・向日葵。

ほったらかしの蕗に、大葉。

 今年は、サツマイモは植えなかった。







by ribondou55 | 2019-06-22 11:13 | 畑にいます | Trackback | Comments(2)
 
 山田風太郎著『あと千回の晩飯』1997年・朝日新聞社刊。

 書名となった『あと千回の晩飯』は朝日新聞・朝刊で、

 平成六年十月六日から平成七年三月二十七日(正)、平成七年十月五日から平成八年十月十六日の間、連載された文章でアル。

 つまり、西暦で云うと1994年から1996年の間である。

 二十五年前と云えども、このボクが、新聞連載時、風太郎さんの文章を気にとめなかったハズがない。

 この『あと千回の晩飯』という題名は、記憶の底にぼんやりあったのだろう、

 過日、いきつけの図書館の書棚にこの背表紙を見いだした時、はっと閃くものが在った。

確かに、書物は読者を呼び寄せるものなのだ。

冒頭、つまり連載の初回にこうある。


 ◎遠雷の音

 いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだと思う。
 といって、別に今これといった致命的な病気の宣告を受けたわけではない。七十二歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴と云うべきか。


こんな書き出しで始まっていた。

二十五年前のボクは、人ごとのように、面白ガルだけで、読み過ごしただろう。

だが、今、七十歳を過ぎてみると、ボクにも「遠雷の音」はきちんときこえているのだ。

「遠雷の音」とは、致命的な病気の宣告、つまり、「死」の宣告である。


つひにゆく道とはかねてききしかどきのふけふとはおもはざりしが

「死」に当面して呆然としている、「伊勢物語」の伊達男、在原業平の辞世の歌を引き合いに出して、

この「つひにゆく」を「ついにくる」と言い換えて老いと解釈すれば、人生はまさにその通りだと、

風太郎さんはおっしゃる。


そして、二年後の連載最終回を前に

私は七十四歳という望外の長命を得たが、果たして何らかのメリットあったかと自問する。

自分自身は老来何かと不便な事が多く、長生きに余得があると思えない。

中でも、映画女優を見るのつけ手も、昔のように圧倒的美女が、近来稀になった。

又、かつての此の世のものとも思えないほどの美女が、四十,五十となり、

テレビなどで「美女の果て」を見る羽目になった。

長生きのデメリットの好例だ.

などと、おっしゃる。

ボクも、全くだと思いつつ、あの人とこの人と思い浮かぶ。

さて、最終回。


◎死こそ最大の滑稽◎

 自分が年をとるのは何でもないが、美人の年を取るのを見るのは、なんともうら悲しい.
 実を言えば世の中に美人が少なくなったというのは、私の錯覚に違いない.(中略)美人が美人に見えなくなったのは、老いの致命的な証にちがいない。
 要するに近松門左衛門じゃないけれど、いまわの際にいい遺すべき一言半句を私は持たないのだ。
 先月下旬から某病院に入院し、白内障の手術を受けた。その結果、白内障の方はよくなったが、網膜出血の方は元に戻らない。糖尿病やパーキンソンは依然として元もままで結局私は中途半端なまま、あの世に行く事になるだろう。
 いろいろ死に方を考えてもたが、どうもうまくいきそうもない。私としては滑稽な死にかたが望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。
 ただ、死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆる事を、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る。
 あるいは死ぬこと自体、人間最大の滑稽事かも知れない。


と、締めくくられた。




ちなみに、近松の辞世の句はこうだ.


それ辞世 さるほどさるも その後に 残る桜の 花し匂はば


で、長文に疲れたので、明日に続く。


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保存したら、フォントサイズが、メチャクチャだ。


補記


一夜明けて、続きである。


風太郎さんは、2001年にお亡くなりになった。

戒名は、風々院風々風々居士、墓標には「風ノ墓」と。

近松は臨終に当たっていう言葉など何もない、だだ己が心血を注いだ作品が後世にも匂い立てばそれでいい、という。

死について、ボクラは口のするしないにかかわらず心中では多くのことを考える。

お釈迦様は、生病老死の四苦こそが人生の本質だと云われた。

ボクはこの頃、全くそうだなと、フト思うことがある。

しかし、悩み苦しみ千萬言を費やしても、死んでしまえば、まったくの静寂、言葉はない。

だったら、あれやこれや七転八倒することが、滑稽ではないか。

ではどうする。

面白おかしく暮らせばいいのか?

ボクは困る。

七十,八十になっても、今が青春なんておっしゃる方なんぞは、まぶしすぎる。

さてさて、どうする。

やっぱり、ぐずぐず、うじうじしながら、年寄り臭く、死ぬまで生きるのだろうか。

まことに、花菱アチャコ師匠のこの一句が、ボクの本音である。


 むちゃくちゃでござりますがな。










by ribondou55 | 2019-06-21 17:28 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

松本城、二年ぶりに。

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飛騨からの帰り、松本で一泊。

松本は、父方に縁がある地であるので、ボクにとっても愛着がある。


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二年振りの松本は、どんどん変化していて、見慣れたままなのは、お城と縄手通り。

外国人観光客が多いのにも、驚いた。

お城の夜景を見に来ていたのは、欧米からの人ばかりのようだった。

この日は、クローズされた店が多くて、夕飯を食べるために、駅近くまで歩くハメになった。

飯屋ではないが、今度来たときには立ち寄りたい。


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松本では、しばしば宿泊したホテルのコンセプトが大分変ったらしく、ちょっと、ボクにはいただけない感じがした。






by ribondou55 | 2019-06-20 10:35 | ちょっと、そこまで | Trackback | Comments(0)
 
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飛騨古川の近くに宿を取った。

この町を訪れたのは、初めてでアルハズ。

ところが、急な雷雨に軒を借りながら、この街を歩いていると、すっかり既視感に囚われていた。

この小道には見覚えが、

あの角を曲ると郵便局・・、とか。


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雨宿りの狭い軒下で、シー・ズーを散歩させていた初老の女性は、話しかけても言葉少なで、顔も伏せがちな人だった。


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雨あがりの町を歩く。

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この石碑にであった。


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ああ、飛騨古川とは、あの町だったと、はたと胸に落ちた。


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少女の足下には、こうある。

「野麦峠を越える娘たちは十二歳だった」




この頃、ここは初めて来たところと思いつつも、

その風景の中でしばらく過ごすと、

ここは見知った所ではないかと

感じてきて、

やがて、うっすらとしつつも、確信のようなものが、胸中に頭を擡げてくる。

デジャブ、・・・、これも、「老いるショック」?















by ribondou55 | 2019-06-19 06:07 | ちょっと、そこまで | Trackback | Comments(0)
 
 飛騨からの帰路、立ち寄る。


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 武蔵丘陵森林公園の年間パスポートで入園できた。

 国営公園全てで、使用できる。



 さて、今朝も5時に目が覚めた。

 こういう現象を、みうらじゅんさんによると、老いるショックというのだと、・・。

 ああ、まったく「老いるショック」。

 













by ribondou55 | 2019-06-18 05:15 | ちょっと、そこまで | Trackback | Comments(0)

水面を滑りまわって世を過ごし、その上、空を飛ぶ羽も持っているあめんぼは、老蛙の憧れだ。


by 泡六堂