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 「海よりもまだく」(監督・ 原案・脚本・是枝裕和、2016年)を、観てきた。

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 期待を裏切らない。

 是枝作品を見続けてきたが、この作品が還暦過ぎのボクには、一番しっくりときた感じだ。

 評判の映画だから、あちらこちらにレビューが出ている。

 本作は監督自身が19年暮らしていた東京、清瀬市の団地を舞台にした家族のドラマ。ユーモアを込めた、よく練られたセリフや繊細な演出が、登場人物の心情を表し、是枝映画ならではの優しさに満ちた映画となった。映画comより拝借


 東京近郊の田舎暮らしであったボクは、毎日片道2時間かけて都内まで通学していたが、団地住いの経験がない。

 仕事についてから、時折巨大団地を訪れることがあったのだが、ボクにとっては異空間という感じがいつもつきまっとていた。

 この映画は、一面では団地映画である。

 団地、映画とくれば、ロマンポルノの団地妻シリーズが、すぐに思い出される世代であるのだが、それはさておき・・・、否、案外そこいらを踏まえていくと、面白いかもしれないが、ボクの脳みそでは手も足も出ない。

 大人になりきれない男と年老いた母を中心に、夢見ていた未来とは違う現在を生きる家族の姿をつづった人間ドラマ。15年前に文学賞を一度受賞したものの、その後は売れず、作家として成功する夢を追い続けている中年男性・良多。現在は生活費のため探偵事務所で働いているが、周囲にも自分にも「小説のための取材」だと言い訳していた。別れた妻・響子への未練を引きずっている良多は、彼女を「張り込み」して新しい恋人がいることを知りショックを受ける。ある日、団地で一人暮らしをしている母・淑子の家に集まった良多と響子と11歳の息子・真悟は、台風で帰れなくなり、ひと晩を共に過ごすことになる。 お借りしたのは上と同じ

 その「ひと晩」の過ごし方が、とてもいい。

 2LDKか、3DKか、その間取りは定かではないが、人の生活は住まう空間に順応して振る舞いが身につくものだ。

 ボクも結婚当初から二人の子の兄が小学校に入学直前まで、2DKの賃貸マンション暮らしをした。

 そこで、手足の伸ばし方が部屋のサイズに決定されていくものだと、知ったのだ。

 是枝演出は、細かくその辺の機微を詰め込んでいる。

 大したものだ。

 それは、生活感の細やかな演出にも現れていて、もしかすると、樹木希林という人のすごさかも知れないのだが、感心させられる。

 年金を頼りにいきるおひとりさんのつましい生活ぶりも、たまにやってくる息子や娘それに孫たちを迎えたときのうれしさも、ボクガ死んで配偶者一人になったときの様子として、身に染みた。

 ボクはつい、山田洋次を対比させてしまうのだが、山田はボクの目には、庶民を一回「観念的な基準」のフィルターを通して観察しているように思える。

 それに対して、是枝はもっと直裁に生身の「人」の息づかいを熟知しているように思える。

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 その台風の夜の描き方は秀逸だが、タコの滑り台のエピソードが気に入った。

 この写真は、撮影に使用された清瀬市内の公園にある、「滑り台保存館」というすごすぎるサイトから借用した。

 この、タコ滑り台に、暴雨風雨の中、ダメ父の小説家志望が息子を誘ってくる、後から母親が迎えに来るのだが、息子は宝くじを落としてしまう、そこでとっちらかってしまった宝くじを、今は離婚している元夫と元妻とその子が、拾ってあるく。

 息子が宝くじに寄せた夢は、その金で家を建てる、よりを戻した両親とおばあちゃんとみんなで暮らすのだと。

 笑わせられるのだが、それ以上に、ボクらの人生も、いつもはずればかひかされている宝くじのようで、切なくなった。

 まあ、語り出すともっといえそう、そういう映画はそんなに多くないのだ。

 不知*、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿り*、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

 と、鴨長明さんはおっしゃる、。

 その生から死までの「仮の宿り」でも、自らが望むままにを歩むことはできない。

 どこで間違ったのか?

 いまわの際にも、やはりそう思うモノだろうか。

 いやいや、すべてを受け入れ、それでも悪くはなかったと、思えるモノだろうか?


 この先品の題名はテレサ・テンの「別れの予感」(作詞・三木たかし)の一節からとったのだと、そのシーンからわかるのだが、しかし言葉としては月並みなものだ。

 ただ、テレサ・テンのあの歌声に乗せて聴くと、一撃を受ける、納得してしまう。

 「海よりも深い」愛というものが、人間の関係を常につなぎとめるものでないこと。

 そういえば、テレサ・テンは四十二歳と云う若さで亡くなっていたのだ。



 

 

More 広島スピーチ
by ribondou55 | 2016-05-28 21:58 | 還暦シネマ | Trackback(1) | Comments(0)
 グレーゴル・ザムザのごとくに、芋虫になって3日間、その後お猿さん並みの直立歩行になって3日、そして現在だが、不自由である。

 ぎっくり腰。

 茄子苗を追加して植えようと、JAの農産物直売所に出かけた。

 物色していると、軽くギュウと腰が痛んだ。

 来た!

 すぐにわかった。

 帰宅し、2時間ほど経過すると、歩行できなくなり、ゴロゴロ、ハイハイの「虫」様の存在になり下がった。

 翌日は、配偶者の誕生祝に息子夫婦が食事に誘っていてくれたが、キャンセルした。

 家で飯を食うことになり、配偶者はそれもうれしいらしく、献立はあれかこれかと迷いながら、準備した。

 翌日、息子の嫁さんは心配してくれたが、息子は「またー、やったー」とにやにやしている。

 きゃつらは、母親の手料理をたらふく食って帰って行った。

 それから、配偶者の世話になっている。

 
 昨日から少しは動こうと思って、畑までは歩いてゆくが、その畑は1週間ほどの間に、かなり様子が変わる。

 ウリハムシめが、跋扈し始めた。

 こやつ、キュウリやスイカ、カボチャなんぞの葉を食い荒らす。

 増えだすと手に負えなくなる。

 
 そんことを心配しだすときりがないので、忘れておこう。


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 今朝の朝日新聞朝刊の論壇批評、小熊英二さんの、「二つの国民  所属なき人 見えているか」を読んだ。

 一応、内容をメモして、忘れないようにしておきたい。

 「第一の国民」は、企業・官庁・労組・町内会・業界団体などの「正社員」「正会員」とその家族である。「第二の国民」は、それらの組織に所属していない「非正規」の人々だ。

 この「非正規」という言葉は、2000年代に急増し、以前は「パート」「日雇い」「出稼ぎ」という言葉はあったが、それらを総称する言葉はなかった。「非正規」と呼ばれる人々は、単に臨時雇用というだけではない「どこにも所属していない人々」を今や指しているのだという。

 低所得のみならず「所属する組織」を名乗ることができない。このことは、結婚ひとつとっても、大変難しくなる。

 メデイアも相手にするのは、「組織人」であり、「著名人」。所属する組織のない人々の声など相手にしない。

 政党なんぞ、耳を貸すはずもない。

 放置されている「第二の国民」の代弁者は現れるのか?

 日本社会の未来を左右し、政党やメデイアの存亡を左右する、わたしたちすべての人にとっての大問題でるとあると、と。


 かくいう小生は、年金暮らしの「隠居」である。年金受給者という他には、某自治会員、自治会入会時に、自動的に某神社の氏子となり候。で、やっぱり、そのほかには所属する組織などありません、が。

 
by ribondou55 | 2016-05-26 17:15 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 『牡蠣工場』(監督・想田和弘、2016年)を観た。

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 映画comの解説を借用する。

 「選挙」「精神」の想田和弘監督が、岡山県の牡蠣工場で働く人々の姿を記録したドキュメンタリー。ナレーションやBGMなどを排した想田監督独自のドキュメンタリー手法「観察映画」の第6弾として製作された。瀬戸内海に面した岡山県牛窓。かつては20軒近くあった牡蠣工場も過疎化などにより、今では6軒に減ってしまった。宮城県南三陸町で牡蠣工場を営んでいた渡邊さんは、東日本大震災で自身の工場が壊滅的な被害を受け、牛窓の地に移住し工場を継ぐこととなった。労働力不足のため、渡邊さんの工場でも中国からの労働者を雇い始めたが、言葉や文化の違いによるコミュニケーションの難しさに直面する。隣の工場では、早くも国に帰る脱落者が出た。牛窓という小さな町の日常から、グローバル化、少子高齢化、過疎化、労働問題、移民問題、さらに震災の影響など、日本が抱えるさまざまな問題が浮かび上がる。


 そういうことである。

 ボクらは、さりげなく過ごしている日常が実はさまざまな問題に浸食され、変えられ、揺さぶられているということに、自覚的でない。

 いつものように、観客はスクリーンを見続けるだけの作品である。

 でも、ちょっと今回は、「私」が垣間見えるか?

 ともあれ、牛窓という小さな港町とそこで営まれる牡蠣剥きの工場に起きていることは、身を凝らし耳をすませば、ボクの住む北関東にも、もうしばらく以前からあったぞと、いえば確かに見えていたことである。

 その問題の一つ一つをつまみ上げようとすると、芋づるのようにずるずるとあれもこれもと関わり合い絡み合った諸々の問題が引きずりだされてくる。

 もう、お手上げだ、そんな気分になる。

 ひたひたと寄せてくるあれやこれやは、ボクらの日常の全局面を変質させていく。

 なくしてもよいもの、なくしてならないもの、うけいれてよいもの、断固拒否を貫くべきもの、・・・、平穏に喰い、睡り、排泄できる日常をどう守ってゆけるか、考えよう。



 
by ribondou55 | 2016-05-20 23:26 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 犬のふんが放置される、これからはハエなどがやってきて、見かけただけでも気分が悪い。

 それが、ボクが耕す畑と歩道の境界に頻繁に置き去りにされる。

 配偶者は、「糞、持ち帰れ」的な標語看板を立ててはと勧めるのだが、エラソーに注意するのはボクの趣味ではない。

 そこで、ボクは境界にこぎれいな草花を植えてみた。

 ところが、大抵は踏みつぶされる。

 酷いときは、ポット植えの苗をそこに定植したところ、数日後、そっくりそのまま根こそぎ姿を消した。

 どこかのお庭か、ベランダに今ごろは咲いているのだろう、せめて達者でいてほしい。

 花に口なし。

 しかたないので、クローバーの種を蒔いた。

 さすがに強靱な生命力で今年で三年目になるが、すかっかり根付いた。

 花も咲いている。

 しかるに、そのしげる葉のなかに、ウンチはしっかり残されている。

 ボクの目には、このごろは、犬の糞ではなく、飼い主のウンチだと映ってきた。

 犬というのは、ボクも長年犬と散歩してきたので身に覚えがある、腹具合のよろしい時は、大体脱糞する場所が決まってくる。

 下痢などの時は始末が悪い、場所を選ばないし、始末にも難渋する。

 ボクの畑の境界所の糞は、健康体の排出物である。

 それは、ちょっと救いになる。

 この間、この辺りで遊んでいる女の子が、「ここのクローバー、四つ葉がおおいのよ。」と教えてくれた。

 四つ葉のクローバーと犬の糞。

 この取り合わせが、泣かせる。


 飼い主の皆様、これから夏に向かうにつけて、犬の尻の始末は飼い主がしましょう。

 犬は、自分の尻を、自分でふくことはできません。

 人犬一体、強い絆で結ばれているのだから、犬の尻は飼い主様、あなたの尻だと、お思いくだされ。

 いうまでもありませんが、尻をふくというのは、排泄物もきちんと飼い主様がその場からお持ち帰り頂くということです、念のため。



 
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   見られてるぞ!


 

  
by ribondou55 | 2016-05-19 23:08 | 畑にいます | Trackback | Comments(0)
 賀茂祭(葵祭)に行ってきた。

 この季節の花は、杜若(かきつばた)であろう。

 子規は杜若(燕子花)の句をたくさん詠んでいるが、この句が好きだ。

 心なしか艶めかしい感じがする。

 杜若を詠みこんだ歌としては、伊勢物語の「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」が、まず思い浮かぶが、ボクは万葉集の家持の歌が好きだ。

 かきつばた衣に摺り付け大夫の
         着襲ひ猟する月は来にけり  家持


 定家27歳の時の作、旧暦5月5日は薬猟(くすりがり)の日、恒例の初夏のイベントに心を躍らせているのだろう、若々しく華やかですがすがしい。

 
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 本当は、上賀茂の太田神社を杜若を見に訪ねたかったが、配偶者のリクエストで久々に嵯峨野をぶらつきに。

 写真は、祭り見物の前日、醍醐寺まで足を延ばした。

 その途中で寄り道した勧修寺の池に咲いていた。

 その池にはカルガモの親子がいて、ボクらはおおいに和んだのである。

 
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 醍醐寺にゆく道を勧修寺の受付の女性に聞いたのだが、教えてもらった通り山科川の遊歩道をいくのだが、なかなか目指す中継点に行き着かないので、不安になってジョギング後のクールダウン中とおぼしき女性に、道を確認すると、醍醐寺の門前まで案内してくれると、おっしゃる。

 女性はボクらと同世代のお方と見たが、マラソン好きらしく案内するにも足が速い、ボクラはちょっとまいってきて、もうこの辺で結構ですと申し上げるのだが、いやいやいつも醍醐寺の門前まで走っているから、気になさらないで。

 だが、この親切さん、走り慣れた道のはずなのに、通り過ぎる青年に、この先は醍醐寺よね?なんて、訊いている。

 ようやく醍醐寺には到着したのだが、あとで地図でよくよく調べると、大分遠回りをして、ガイドブックの所要時間の約二倍ほど歩いたようだ。

 汗をたっぷりかいたのだが、醍醐寺の境内の青紅葉の下を歩くうちに、汗がすかっり引いて、緑陰の涼しさは初夏の気配であった。

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by ribondou55 | 2016-05-18 16:51 | 咲いた咲いた何の花 | Trackback | Comments(0)
 便秘に悩まされ来た。

 おそらくは、20代後半からだから、40年以上の長きに渡った。

 尾籠な話ではあるが、詰まっては下し、詰まっては下しという繰り返しで、平穏な排便が長く続くことなどななかった。

 そのために、何時頃からか、漢方をうたう薬を手放すことができなくなった。

 この薬は、確かに効くのだが、寝起きには効果を発揮せず、通勤途上の車中や歩行中に急激に催してくるので、脂汗をかかせられることも、しばしばであり、苦しい目にも会わせられた。

 以前にも書いたが、その薬の副作用に気づかされたのが、最近。

 その薬を止めて、数ヶ月過ぎて、今、便秘から解放されてしまった。

 今は、夕食後にヨーグルト、十二時前には就寝して六時間以上は眠る。

 床の中で、軽く大腸回りをマッサージ、自己流だが。

 これで、もう『便秘』的であったことら、脱出できたようなのだ。

 いうなれば、生活習慣の改善ということであるが、ボクが思うにはそれだけではない。

 『便秘』的ということは、つまり四六時中、排便問題を頭の隅にくすぶらせていることだったと思うのだ。

 それが不安を肥大させる。

 肥大した不安は、薬への依存を強化してしまう。

 しかし、そもそもの始まりは何が原因だったのか。

 多分就職し、ひとり暮らしをはじめた、駆け出しであるから仕事上のストレスが津波のように襲いかかってきた、なれない自活生活の不自由さ、見知らぬ世界に入り込んでしまった不安、そんなこんなによって、多分『便秘的』な身体現象が出現した。

 その解消に、薬を用いた、効いた。

 しかし、それは一度二度にとどまらず、常習化し、心身共に『便秘』的になっってしまったのだ。


 ともあれ、ボクはどうやら解放された。

 なぜに逃れられたのか、・・・、それは、実は対処法として、ヨーグルト・睡眠時間・マッサージとあげた三点が決め手でないだろう、・・・多分、隠居したからである。

 このところ周辺の人々から、毎日何をして過ごしているのか?と、不審がられることが続いた。

 ボクは、「特に退屈はしては、いないのですが・・・」という程度で、お茶を濁す。

 正直その通りで、まったく退屈していない。

 人の目を気にしない、なるべく、人付きあいから退く、向上心的なモノはなくしてゆく、過剰な心地よさを求めない、生産的でありろうとはおもわない、・・・・・・・、そんな感じでいたいと、思っている、思うと少しづつそうなる。

 もちろん、世間的には、ダメ人間に見える、相手にされなくなる、・・・、それでいい。

 つまり、便秘のもととなるようなストレスフルな生活実態のもとに生きることから、自分を解放できつつあるのではないかと・・・・・、この頃思うのだ。

 快便快眠、これに勝るしあわせはない。

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by ribondou55 | 2016-05-17 15:59 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)

『最愛の子』を観て。

 『最愛の子』(監督・陳 可辛〈ピーター・チャン)、2014年)を観た。

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 2009年7月。中国・深センの下町で寂れたネットカフェを経営するティエン(ホアン・ボー)は3歳の息子ポンポンと二人暮らし。離婚した元妻ジュアン(ハオ・レイ)は、週に一度だけポンポンと一緒に過ごしていた。ある日、近所の子どもたちと遊びに出かけたポンポンは、ジョアンの車が通りすぎたことに気付きあとを追いかけるが、車を見失ったポンポンを何者かが連れ去ってしまう。夜になっても帰ってこない息子を心配したティエンは警察に通報。だが失踪後24時間は事件として扱えないという。自力で捜そうと駅へ向かうがポンポンは見つからず、その後訪れた警察署でティエンは防犯カメラの映像に男がポンポンを抱いて連れ去る姿を目にする。その日からティエンとジュアンの息子捜しが始まった。インターネットで情報提供を呼びかけるが、報奨金目当ての詐欺かいたずら電話ばかりが掛かってくる。罪の意識と後悔に苛まれながら二人はポンポンを捜し続けるのだった……。失踪から3年が経った2012年の夏。ティエンの携帯にポンポンと見られる男の子が安徽省にいるという着信が入る。深センから遠く離れた安徽省の農村を訪れたティエンとジュアンは遂に息子を見つけ出すが、6歳になったポンポンは両親である二人を全く覚えていなかった。ポンポンが母ちゃんと慕うのは、ホンチン(ヴィッキー・チャオ)という育ての親。ホンチンは「自分は不妊症で子どもが産めず、夫が深センの女に産ませて3年前に連れてきた」と主張するが、実際は一年前に死んだ彼女の夫が3歳のポンポンを誘拐し安徽省に連れてきたのだった。初めて知らされるその事実にホンチンは困惑するばかりであった……。半年後。ティエンとジュアンは、いまだに「家に帰りたい」と言うポンポンの愛情を何とかして取り戻そうと日々心を砕いていた。そんな中、ホンチンもまた、子を奪われた母として我が子を捜しに深センへと向かっていた……。


 Movie Walker から、ストーリの紹介をお借りする。

 複雑なドラマなのだ。

 監督は、ことの奧深くまで踏み込んで、被害者と加害者が、「最愛の子を」奪い合う過程で、共に酷く傷んでゆくありさまをよく描いている。

 我が子は、最愛の存在である、執着してもしてもしきれない。

 この映画の見所は、誘拐された両親(今は離婚していて、妻は再婚している)が子どもを奪還するまで苦闘もさることながら、誘拐犯の妻が、子どもが連れ戻された後の、いはば「育ての母」の喪失感にまでストーリーを繋げてゆくことのある。

 つまり、そこに垣間見えるのが、めざましい経済成長の中での、都市と農村の格差であり、金に飲み込まれてゆがんでゆく価値観であり、モラルの崩壊であり、家庭の変容であり、・・・、まあ、何でも云えるのだ。

 そのどれもが、ボクの国でもかつて起きていて、そのなれの果てが、「現在」である。

 勿論、誘拐事件が日本でもあるのだが、この映画から見えてくるほどの頻度で起きているわけでない。

 誘拐した子どもを売買する、そんなことも考えられない。

 しかし、金がすべての世の中であることは、この国も同じだ。

 ともあれ、子は最愛の存在であることは、確かだ。


 

 

 
by ribondou55 | 2016-05-13 12:03 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 PC回りに置いてある書棚で、手の届く範囲に岩波文庫の「徒然草」と、佐藤春夫訳の河出書房版「現代語訳 徒然草」がある。

 座右の書なんてモノじゃないので、念のため。

 時折、それこそ手持ちぶさたの折に、手に取るにこれは格好のものなのだ。

 そこで、七十二段を佐藤春夫訳で。

 卑しく見苦しいもの。身の回りに日用品の多いこと。硯に筆が多く入っていること。持仏堂に仏が多いの、前栽に石や植物が多いの、家の中に子孫が多いの、人に面会して言葉が多いの、願文に善事をほどこしたことを多く書き立てたの。多くて見苦しくないのは、文庫に積みこんである書物、掃きあつめの埃。

 
反論の余地はない、まったく同感です。

 とにかく、身の回りをシンプルにせよ、持ち物は最小限に、身の程をわきまえて謙虚に生きよということだろう。

 配偶者は、年を取ったのだから、一層身綺麗にせよと、だらしないボクを叱りつけるのだが、案外そんなことも、兼好さんの生活感覚に通じるモノがあるかも知れない。

 我が隠居生活も兼好さんの言われるようにと思うのだが、この後一生使わないだろう椀や皿が台所の棚やら隱しにぎっしりと詰めこまれているのを一つとっても云うまでもなく「一事か万事」、がらくたがあちこちに、・・・。

 がらくたは、ボクのすれっからしの性根にもぶら下がっているのだが、まだ、生乾きのものもあるらしく、時折腐った臭いまでしてくるのだ。

 こまったものだ。


 でも、無用なモノであっても、集めてみると使いようでは、アートなんてね。

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by ribondou55 | 2016-05-11 23:18 | よしなしごとあれこれ | Trackback(1) | Comments(0)
 還暦間際になってから、50代後半からだが、音楽を心がけて聴くようにしてきた。

 「心がけて」と、いうのは妙だが、というより、楽しさを知ったのである。

 ジャンルは問わず手当たり次第に聴く。

 子供たちの真似をして80GBのiPadというもの愛用する。

 とうに満杯になった。



 そうはいっても、このあとどれほど聴いたとしても、砂浜の砂の数粒に見合うかという程度だろう。

 ことごとさようであって、せっかくこの世に生まれてきたというのに、ボクの知りえたことなど、無限にゼロに近い。

 嘆きではないのだ。

 毎日が未知なものに出会うというのは、悪いものではない。

 無知の効能である。


 最近の幸運は、THE BLUE HEARTSの「THE BLUE HEARTS 30th ANNIVERSARY ALL TIME MEMORIALS ~SUPER SELECTED SONGS~」を聴いたこと。

 高齢者向きの曲でないが、少年期のボクが出会っていったなら、文句なしに打ちのめされたろう。

 それと、懐かしいカルメン・マキ「Good Times, Bad Times ~History of Carmen Maki~ 」。

 聴き終われば、懐かしいだけの人ではなかった。

 

 今日、ETV特集の録画で詩人の岩崎 航さんのドキュメンタリーを観た。

 筋ジストロフィー症と向き合う岩崎さんが、同じ病気であるお兄さんを見舞う、その時のご両親もともにいて和やかに語りあうひと時の映像は、人が人であることの美しさを感じさせてくれた。

 ボクが知らなった高いレベルの「出来事」として、このご家族の「言葉」を聴いた。

 岩崎 航さんの公式ブログ「航のSKY NOTE」(http://skynote21.jugem.jp/)。

 
 
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by ribondou55 | 2016-05-09 21:59 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 午後から雨という予報であった、その通りに小雨が降り出してきたので、午後の畑仕事は止めにした。

 午前中、この間強い風が吹いていたのを嫌って、見送ってきた茄子と胡瓜の苗を植え付けた、それだけでも本日やるべきことは、やってしまったと、いうことにした。

 もともと、ボクは「晴耕雨読」という言葉も、生活パターンも、あまり好まない。

 晴れていても、怠け惚けて耕さず。雨が降れば、本を枕に目を閉じる。

 そこで、本日はというと・・・・。

 『秋日和』(監督・小津安二郎、1960年)のデジタルリマスター版をBS3からの録画で観た。

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 我が家のビデオデッキ大分古くなったモデルであるが、録画溜めの容量は、そこそこに備わっているので、録画しっぱなしの番組がいくつも眠っている、その中からの一作。

 画像は驚くほど美しい。

 このごろの画像処理技術は、大したものだと感心されられる。

 
 さて『秋日和』、楽しませてもらった。

 大人によるの大人のための人情コメディという感じがした。

 佐分利信・北竜二・中村伸郎が演じるオヤジトリオが、亡き親友の未亡人(原節子)への下心一杯に、年頃になった遺児(司葉子)の縁談を種にして、いいかげん余計なお節介をするという、人情味満載のお話。

 結果にはちょっと寂しいハッピーエンドと相成り候、という次第。

 オヤジトリオのジョークは、この頃の世情から言うと、実もふたもない下品なセクハラ・パワハラ的な発言だと感じるだろう。

 若い男女は必ず結婚すべし、そのためには近場にいる大人がきちんと世話をしなければならない、・・・、本当に余計なお節介。

 勿論、監督の中にはこういう「お節介」の根っこにある思想が、戦後のニホンのミンシュテキな人間関係を発展させていく上の大いなる障害になり得るという批評的な見方があったかもしれない、そういう「お節介」をコテンパに批判しきるドライにハッチャケた岡田茉莉子を登場させることで観客に暗示しているような。

 でも、ボクはこのオヤジトリオを大いに好ましく思う。

 それはこのトリオが、紛れもなく全員大人たちであって、大人の口で「人情」を語り合っている。

 トリオのそれぞれにとって永遠のマドンナである亡き親友の妻(原節子)へ寄せていた下心は、この騒動によって粉砕されてしまうという結果になるのだが、それもそれで、うれしくもおもしろいものだと、自らを客観できている。

 大人だ。

 なぜ、そんなことの感心するかというと、還暦をとうの昔に過ぎてなお、何時までもガキめいてばかりの自分を情けないと、常日頃思い知ることが多いからである。

 誰かさんのいう「人間の劣化」、我が身でいえば、全うに老いることすらムズカシイ、ということになる。

 小津映画を観るたびに、年を重ねた人間の味わいを教えられるのだ。






 

 
by ribondou55 | 2016-05-06 16:15 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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