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 10月20日、松代「農舞台」にて

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 わらの色が美しい。

 豊作の神さま。

 ありがたし。

 この日は、松之山温泉泊。

 21日は、秋山郷へ。

 野沢温泉泊。

 
by ribondou55 | 2015-10-23 17:05 | ちょっと、そこまで | Trackback | Comments(0)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


 この詩を思いおこすたびに、宮沢賢治という人の「孤独」を感じる。

 ひとりぼっちの人である。

 賢治さんは「サウイフモノ」になろうとした人であるから、しかたがないのだが。

 「デクノボウ」は、ひとりぼっちである。

 
        不軽菩薩

     あらめの衣身にまとひ
     城より城をへめぐりつ
     上慢四衆の人ごとに
     菩薩は礼をなしたまふ

     (われは不軽ぞかれは慢
     こは無明なりしかもあれ
     いましも展く法性と
     菩薩は礼をなし給ふ)

     われ汝等を尊敬す
     敢て軽賤なさざるは
     汝等作仏せん故と
     菩薩は礼をなし給ふ

     (こゝにわれなくかれもなし
     たゞ一乗の法界ぞ
     法界をこそ拝すれと
     菩薩は礼をなし給ふ)


南無常不軽菩薩。

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by ribondou55 | 2015-10-18 23:05 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 『先生と迷い猫』(監督・深川栄洋、2015年)を観てきた。

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 埼玉県の岩槻で実際にあった地域猫捜索の模様を記したノンフィクション「迷子のミーちゃん 地域猫と商店街再生の物語」(木附千晶著)を原案に、オリジナルキャラクターやストーリーを加えて映画化。「太陽」以来9年ぶりに映画主演を務めるイッセー尾形が、主人公となる頑固な元校長先生に扮した。校長職を定年退職し、妻に先立たれて一人暮らしをする森衣恭一。堅物で偏屈なことから近所でも浮いた存在で、訪ねてくるのは亡き妻がかわいがっていた野良猫のミイだけ。追い払おうとする森衣をよそに、ミイは毎日妻の仏壇の前に座っていた。そんなある日、ミイが姿を見せなくなり、気になって探し始めた始めた森衣は、同じようにミイを探す人々がいることを知り、その交流のなかで「いなくなってからでは伝えられない気持ち」に気付く。、「60歳のラブレター」「神様のカルテ」の深川栄洋監督がメガホンをとり、染谷将太、北乃きい、岸本加世子らが共演 (映画com より拝借して引用)

とてもいい紹介である、感謝。

 イッセー尾形は、前作『太陽』では、敗戦前後の昭和天皇を演じて、人間天皇へとうつりゆく時代の、「帝の孤独」を見事に演じた。

 今度は、一転して老いぼれ退職校長のひとりぽっちの悲哀を演じてみせた。

 この映画には、何人もの、ひとりぼっちが登場してくる。

 妻に先立たれた元校長、どうやら連れ合いのいなそうな美容院の店主(岸本加世子)、高校を中退したらしいクリーニング店の娘(北乃きい)、駄菓子屋の店主(ピエール瀧)、いじめに遭っている女子高生(久保田紗友)自動車の整備をしている(嶋田久作)そして、修道院に身を寄せる小学生、これらがそれぞれに「ひとりぽっち」、そのそれぞれの隙間をうめるかのように、日々猫のミイ(ドロップ)が巡り訪れるのであったが、ある日から唐突に姿を見せなくなる。

 ミイは、亡き妻(もたいまさこ)がかわいがっていた野良猫であった、元校長はミイを見かけるたびに亡くなった妻が思い出されるのである。

 元校長は、今や、やもめ暮らし、その上、周囲の人の目には退職後も変らずに「校長先生」であり続けている尊大で滑稽な老人として見えている。

 もちろん、元校長はエラそーに振る舞っているわけではなくて、そのようにしか生きられない不器用な人なのだが、誰からも敬遠されていることはわかっていても、他者とうまくつながることができない。

 よくある頑固者話でない、元校長には頑固であるための「根っこ」なんてないのだ。

 おそらく、元校長は亡き妻にたいして、何かしらの負い目のようなことを感じている。

 それ故に、ミイが目障りなのだ。

 で、追い出した。

 ところが、三毛猫ミイが姿を消すにいたって、毎日訪れて来てくれたミイがそれぞれの寂しさをいかに慰めていたかということに、元校長のみならず、みんなが気づく。

 一匹の野良猫に、それぞれがそれぞれに名前を付ける。

 一匹の野良猫は、それぞれにとって、かけがえない自分だけの猫なのであった。

 そこから、ばらばらだった人々が三毛猫探しに一つとなるという、お話。

 一匹の野良猫によって、猫探し仲間の間に心が通い出す、そういうお話。


 でもね、どんな事情かわからないが修道院から学校に通う小学生は、やっぱり、「ひとりぼっち」と、もともとは子ども好きな元校長は、よく分かっている、いるがどうしようもない、迷っているのは猫だけではないと、そういう風に映画は終わる。

 つまり、「ひとりぼっち」には果てしがないのだ。

 地味だが、いい映画だ。

 書き忘れた、小鹿祥吾君(染谷将太)は、いい感じだった、こういう「こころのいい」若者が、この世知辛い世の中に、沢山育ってくれるといいなあと、後期高齢者のボクは願う。

 それにしても、こういう動物が主役の映画、うまく演出?編集?するものだと、この作品でも感心した。







by ribondou55 | 2015-10-17 23:18 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 『岸辺の旅』(監督・黒沢清・2015年)を観た。

 ボクは、深津絵里のファンであるので、観ないわけには行かなかった。

 深津絵里(藪内の妻)が、既に死んでいる浅野忠信(夫)の不倫相手であった蒼井優(松崎朋子)に会いにいったシーンは、すごいナー、女の人は、怖いナーと、蒼井優って女優もほんとうにただものではない。

 それも、夫は、どこかで元気でやっていると、伝えるのであるから。

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 このところ、Huluでアメリカやイギリスのテレビドラマをついつい観てしまうのだが、ゾンビをはじめとして、死者が復活?してうろつき回るオカルトチックなもの、イヤ、ホラーだな!、が多いのに、ちょっとびっくりしているのだが、この映画のように繊細な死人の登場は見かけていない。

 亡くなった者が、配偶者や恋人、子どもといった親密なものの前に蘇って生活を共にするというストーリーは、珍しくない。

 だが、この映画の死者のように、死後3年もかけて妻の元に返ってくる、その上、その3年の間たどってきた場所を、夫婦して尋ねていく、こんな話はきいたことがない。

 当然、夫婦の旅の終わりには、亡くなっている夫は、この世にとどまれるわけもなく、彼岸へと旅立つわけである。

 つまりは、この旅は「みとり」の旅である。

 心を残して亡くなっていった人とその亡くなった想いを何時までも考え続けている人の間で、何かしらの了解できる心の交流があって、「みとる」「みとられる」ということが、為されるのかも知れないなと、・・・。

 それは、場合によっては、互いに「許し」「許される」ということかも知れない。

 この映画の死生観は、われわれの心の深層に共鳴するような気分もあった。

 此岸と彼岸が、トンネルのようなものでつながっている。

 黄泉比良坂のような黄泉の国への入口は、あちこちにあって、この世とあの世を行き来して、その誰かに会いに来る。


 死者はここにも、あそこにもいて、彼岸へと旅立つ日を待っている。


 酔っぱらった島影(小松政夫)を、藪内がおんぶして新聞配達店までかえるシーンは泣かせるのだが、いうなれば、ゾンビがゾンビをいたわるなんて、これまでみたこともないなァと、おかしくもあった。

 そして、島影が旅立ったその瞬間に、新聞配達店の壁一面に咲いた花は、音楽とあいまって、圧巻だった、映画ならではの表現である。

 音楽は大友良英・江藤直子、配偶者はちょっと盛り上げ過ぎ?というが、ボクはそれはそれでいいと思った、メロドラマなのだから。


 この映画は、いうなればオカルト映画ではあるが、観終えてうまく言葉にできないが味わいは、・・・・、やさしい。








More ヒッチコックの『サイコ』を思わせる音楽
by ribondou55 | 2015-10-10 09:30 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 8月の末のことだったか、鎌倉市立図書館の司書さんの「つぶやき」が、話題になった。

 もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。

 もう、大昔のことだが、ボクも学校という場が苦痛でならなかった。

 ボクには、恩師と呼べる先生なんていない。

 先生たちは、みんな嫌いだった。

 でも、ボクは結構な優等生で、大体の担任からは、贔屓されていたと思うが、先生が手を伸ばせば届くような距離に立ち止まるのもイヤだった。

 それは、同級生も同じで、それはそれなりに一緒に遊んだりもしたのだが、家の近くの誰もいない原っぱの夕暮れ、この頃の時期ならショウリョウバッタなんぞをひとりで探している、そんな時が、一番心穏やかだった。

 いじめられた経験もいじめた経験もないのだが、教室はいつも息苦しかった。

 このことは、高校になると、ますます嵩じてきた。

 それでも、なんとか、すり抜けてきたのだが、どうしても疲れて哀しい時は学校をサボって図書館へ行った。

 最近、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(ジュノ・ディアス、都甲幸治・久保尚美訳)を読んで、大いに笑ったのだが、なかでオスカーは、自分の通う学校を「愚者の地獄」という。

 まあ、そんなにまでは言う気はないが、勿論、孤立気味の自分自身に、嫌気がさしていたのはボクもオスカーの同類だったのが。


 そんなこんなで、ボクは、学校からも職場からも、逃げ出すコトとになれている。

 仕事に就いてからも、頃合いを見計らって、自主的に休養する。

 通勤駅で、公衆電話から、体調不良につき休暇をとります、そう職場に連絡し、精神不調をととのえに日帰りの小さな旅に出た。

 つまり、形の上でも文字通りに「ひとりぼっち」になることは、自分を回復するために、どうしても必要だった。

 だが、仕事に手を抜いたわけでは無い、十分にプロっぽく仕事をしてきた。

 ツレションをしなくても、仕事はやれる。

 だが、偉いサンにはなれません。

 配偶者と二人だけの生活になっても、彼女から離れて「ひとりぼっちになりたい」ときは、家にいては自室に引きこもる。

 外に行くなら、映画館・サイクリング・日帰りの小さな旅・お寺めぐり・美術館、それに一番の頻度で図書館、これだな。


 鎌倉図書館のツイッターが話題になる前、どこかの統計で新学期、二学期、三学期のそれぞれの開始時期前後に、生徒の自殺数が高くなるという事が報告されていた。

 ボクは、この司書さん、阿呆な市会議員や教育委員会、良識ある市民なんぞからクレームが来るだろうなとちょっと同情したのだが、どうだったのだろう。

 図書館が削除したという報道も無いようだから、図書館が多分、がんばったのだろう。


 一般的にみれば、学校を回避して、図書館に籠もるというのは、非社会的な行動である。

 だが、めまいがしそうな、息苦しい場所から逃げ出すことは、ボクの目からみれば、人間的な行動である。

 ひとりぼっちで、ゆっくりと、自分自身を形成して行く、そういうやり方は、けっして悪いものではない。

 図書館の書棚の間に佇むと、ボクはその膨大な言葉から、なぜか「ひとりぼっち」を慰めてくれる言葉が聞こえて来るような気がする。

 それは、多分孤独な魂を抱いた作家たちからの贈り物だ。

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by ribondou55 | 2015-10-09 09:13 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 また、お上が妙なことをぶち上げている。

 「一億総活躍社会」の実現だと。

 ボクのように「ひとりぼっち」本位で気楽に暮らす者にとっては、縁もゆかりもないスローガンだが、なぜか、漢字ばかりが並んでいるのを見ると、天安門広場にでかでかと掲げられていても不思議がないように感じてくる。

 一億というくくりは、数字の1億でなく、すべての国民ということだろう、「子どもを産んで、国家に貢献して」ネとか、おっしゃる官房長官のお言葉と、ハモっていて、さらには、あの積極的平和主義戦争法とつなげてみれば、GDP600兆円実現のために、だれも遊ばせないぞ、雇用保険なんか当てにするな、非正規ぐらいでぶつぶついうな、「国家総動員」を発令するぞ!ってなことを、っま、思うわけだが、まあ、アベさんにいわせれば、「レッテル貼り」ということだろう。

 40年余り働いて、ボクは僅かな年金頼り暮らしになって以来、ボクは世間様から退却して働いていない。

 穀潰しである。

 こういう輩が、活躍するとはなにか、・・・、ボランティアにお励み、無償の社会貢献は、立派に経済効果を生み出します、生き甲斐、健康増進、元気な老人、これも社会保障費削減につながります。

 がんばってね、活躍してね、老いても1億分に1なのよ、ということだろう。

 そういわれても、ボクはひとりぼっち派だから、この方面ではがんばれない。

 でもね、目の前で困っているいる人には、己のぎっくり腰を労りながら、ちゃんと手を貸す。


 今のところ、ボクはこの隠居生活にほぼ満足している。

 今日だって、昨日だって、配偶者と数回話した以外、誰とも口を聞いていない。

 朝起きるとコーヒー豆を挽いて、トーストを焼く、バナナジュースをつくる、配偶者と喰う、新聞を読む、BSのワールドニュースを見る、それから午前中数時間畑に出る、軽度の農作業、昼飯、今日は明太子納豆パスタ、妙なものをボクが作り、配偶者と喰う。夕飯は、中華丼にしたい、これもボクが作る。午後は、水彩画の練習、これは全部自己流、夜は、テレビを見るか、映画をHuluで観たり、ネットで遊ぶ。それぞれの隙間は、ゴロゴロと時を潰す。

 ごくつぶしだ。

 だが、快適だ。

 配偶者がいるのだから、どこがひとりぼっちだだと、言われるかも知れない。

 だが、「ひとりぼっち」というのは、基本的にはあくまで、心的な現象、そのように認知していればいいのだ。

 なんて身勝手ないいぶんだ、と批判されるかも知れない。

 だが、「ひとりぼっち」とうのは、そういうものだ。

 心の問題として、すべてを「捨てる」。

 本当は、物理的にもすべてを捨てられればいいのだが、この国では、そくのたれ死にだ。


 できるだけ、自分とだけ向き会う。

 基本的人権に「なんびとも孤独になる権利を有する。」と書き加えて欲しいほどだ。

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 ボクは、まだまだだが、ボクのこれまでの人生にはなかった、気分の軽さを味わっている。


 




 

 

 


 

 
by ribondou55 | 2015-10-08 17:13 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 「ひとりぼっち」でいることに対して、自己評価をネガティブにするのは、ばからしい。

 「ひとりぼっち」でいることをに対して、自分は普通ではないなどと思いがちだが、それは間違いである。

 まど・みちおさんの詩に、ボクも好きな詩である。

   わからんちゃん

 なんにも わからん
 わからんちゃんが いてね
 おしごと はじめた
 とんかち スパナ
   トテカンカン チンプンカン
   トンチンカン

 みんなが わらった
 わらったっても へいき
 まいにち まいにち
 まいねん しごと
   トンテンカン チンプンカン
   トンチンカン

 そのうち できたよ
 わからんものが できた
 わからんちゃんたら
 ひらりと のった  
   トンテンカン チンプンカン
   トンチンカン

 みなさん さよなら
 つきまで いってきます
 ふるるん るんるん
 よぞらに きえた
   トンテンカン チンプンカン
   トンチンカン

 ひとりぼっち者は、実は重篤な内省癖があるのが、ほとんどである。

 己の一挙一動を、気持ちの変化を、己の内面の目で監視している。

 問題はその目の眼差しである。

 眼差しは、なにか、それは謂わば、評価基準である。

 まったく、手厳しいお点をつけてくれる。

 その「評価基準」、それを疑ってみようとはなかなか思えない。

 そんなら、いっそ己の内側をのぞき込むのを止めよう、まあ、その部分だけ選択的に思考停止、全面停止は阿呆になるのでやらない。

 だから、疲れ果ててしまう前に、ボクは、こうつぶやく、「トンテンカン チンプンカン トンチンカン」。

 このおまじないは、効く。

 先ほどの「今」から隔ててくれる、次の「今」にワープできる。

 まったく、ボクにとって「ボク」が、ひとりぼっち者にとって「ひとりぼっち」でいることが、どうして?、なんどそうなの?「わからんちゃん」なのだ。

 「わからんちゃん」がわからんのだから、くよくよ考えるほど精神衛生が悪化する。

 でも、その「わからんちゃん」は、ついには、だれもそうはたやすく到達でない、遠いところへいくための、いわば「資格」なのだ。

 ひとりぼっち者は、ひとりぼっちでいられることを、かけがえのない一つの能力と考えよう。

 つまらん「評価基準」をクリヤーなんて、じつは、退屈な人生へまっしぐらということに過ぎない。

 さっきの「今」を検討するのは、数日後、数年後、いつになるか知れないが、風呂につかりながらでも、ゆっくりやればいい。

 自然に忘れてしまうのが、一番なのはいうまでもない。

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by ribondou55 | 2015-10-05 09:54 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 「ひとりぼっち」でいると、自分の殻に閉じこもって、外からの声を遮断し、自我をガードして、傷つくことなく安穏に暮らすのを好む奴だと、一般的にはいわれる。

 これは、もっともらしい、嘘である。

 では本当に、「ひとりぼっち」者が、他者の声に耳をふさいでいるかといえば、多分、それはまったく反対である。

 むしろ、ひとりぼっちは沈黙の人だから、黙って、耳を澄ませている。

 聞けば聞くほど、くだらない。

 まあ、聞き流せばいいことばかり、だから、相手にしない。

 そういう人を、社会性の欠如した、自己防衛的な、孤立的な、つきあいづらい、何をかんがえているか分からない人として、世間様はみなすのだ。


 だが、「ひとりぼっち」は一見孤立しているが、ロビンソン・クルーソーではない、社会内の存在なのだ。

 何度もいうが、ひとりでいるのが心地よいといっても、恋愛だってするし、映画も観るし、お洒落もする、風俗にだっていきたいだろう、有名なスイーツの店にもいきたい、あたりまえではないか。

 ひとりぼっちは、「世間」から退却することではない、閉じこもることではない。

 ボクは、このことをきちんと「ひとりぼっち」自身がわきまえ、知っておく必要がある。

 「ひとりぼっち」は、世間を恐怖することではない。

 自分の実存のスタイルとして、「ひとりぼっち」を選ぶこともあり、あるいは、そうならざるをえない場合もある。

 でも、いづれであっても、社会を恐怖したり、逃げ出すコトはない。


 もう一点、ひとりぼっちは自己中か?ということ。

 これも、まったくちがう。

 「ひとりぼっち」者は、身の程をわきまえて、非常に寛容の精神に富んでいる人たちだ。

 忍耐と、寛容の人である。

 世間様のいわれなき差別、誹謗、中傷に対して、黙って耐えている、わらって聞き流している、馬鹿者たちを許している、そうすることが、ひとりぼっちでいるための心の保ちようなのだ。

 昔から温和しいほど、怒ると怖いという。

 そんなことはない、普段は目立たない人が止むにやまれずに憤る、その意外性にお調子者が驚いているだけだ、だからそういう人は普段から温和しい人をなめている、尊大でつまらない類である。

 つまり、ひとりぼっち者は、そういう意味で平和主義者である。

 今度の戦争法なんぞは、明確に反対である。

 戦争は、国民を総動員する、否応なしに命令に従わされる状態は、「ひとりぼっち」で生きることができなくなる最大のリスクだ。

 万一、非国民よばわりでもされると、不愉快だし、だいいち、目立つ、目立つことは「ひとりぼっち」者がもっとも嫌う状態である、馬鹿共がハエのように寄ってくるからだ。

 だから、ひとりでボクはデモにいく。

 ボクの住む選挙区には、まっとうな政治家なんぞ見あたらないが、それでも選挙の時は欠かさずに、人品卑しげな候補者の中から、それでも熟慮の上、選んで一票投じるのだ。

 生きるに必要な金は、自分で稼ぐ。

 納税義務も果たす。

 くそNHKの受信料だって滞納しない。

 自転車の交通法規だって、時には命の危険を冒しながら、遵守する。

 大切なことは、不条理だとおもっても、誰にも借りをつくらない。

 自分のケツは自分で拭く。

 ただ、ツレション仲間と肩を組む事だけは、まっぴっらというだけ、これを自己中というのか。

 大体、学校の通信簿の素行欄にあった「社会性」とはなんだったのか、あれが、嘘のはじまりだったかもしれない。


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 たとえば、ニャロメ、彼はは堂々たる「ひとりぼっち」である。






 

 
by ribondou55 | 2015-10-04 20:17 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 さて、竹内まりあさんの作品の中でも、人によっては高く評価するだろう『みんなひとり』という曲がある。

 いい歌だ。

 で、その曲の歌詞の終わりは、どういうわけか英語になる。

   Everybody needs to be needed
   Everybody wants to be wanted
   'Cause everybody knows that we are all alone
   Let me give my gratitude to you
   For always being there and smile for me
   Many many thanks to you, the best friend of mine
   Many many thanks to you, the best friend of mine

 赤字の部分は、『だってみんな、ひとりぼっちだから』という感じかな。

 この歌詞は、

   生まれるときひとり  最期もひとり
   だから生きている間だけは
   小さなぬくもりや ふとした優しさを
   求めずにはいられない

 という、ことばに重なる。

 かなりなきわどいことをぴっしりと竹内さんは言い切っている。

 案外、生老病死の四苦の内にあることを、こうも明解に歌詞にしているのは、珍しいのではないか。

 竹内さんの認識は、こうだ。

  「みんなひとりぼっち」というのは、生まれるときはひとり、死ぬときもひとり、だから、生きて間だって人間はひとりなのだ、といっている。

 まさしくそうだよな、このことをこうはっきり言うことはななかできない。

 だからかこそ、「恋人ともちがう、たいせつな心友(ともだち)」を求め探し続ける、「確かな絆とその証」としての「他者」の存在があれば、どんなにかこの寂しい生死の間でこころを慰められることか、勇気を与えてもらえるか、そいういうのである。

 そして、歌の始まりは「荒(すさ)んだ世界に」というのだ。

 荒んだ世界では、恋人すら、心のよりどころとではないのだから。

 相当なものではないか、冷徹な認識である。


 ところが、この歌、蛭子さん的にみると、「確かな絆とその証」といういわば、まさしく「さび」の部分で、笑い出すしかなくなるはずだ。

 絆を証を求めるのは、ひとそれぞれの都合でかまわないが、求めれた方は、たまんねえと、思うだろう、とてもそんな「絆」なんて人に求めることも、自分から結ぶことも、僭越すぎて、頭をポリポリ・・・。

 そんなことは、言わずに、ぼちぼちいこうでないか、というのが「ひとりぼっち」のスタイルである。

 人から求められることも望まず、人に求めることもしない。

 恋愛もするし、結婚もするか知れないが、時には飲み会にも顔を出したりするが、「心友」なんてね?、絆なんて、なんて、恥ずかしい。

 所詮夫婦は、赤の他人というではないか。

 親子も兄弟も、他人のはじまりというではないか。

 この地点から世界と向き合うのが、「ひとりぼっち」というものでないか。


 ここまででもう明らかなように、ボクは「ひとりぼっち」ということを、まったく否定的な感情でとらえることはできないのだ。

 ツレション仲間なんて、ボクはまっぴら、そんな風に生きて行きたい。

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メダカだって、群れない奴がいていいだろう。






 
 
by ribondou55 | 2015-10-03 21:15 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)
 蛭子能収さんは、大昔、「ガロ」に登場したころから異才の人として知っている。

 彼のリアズムは生半可ではない、一筋縄ではいかない人物である。

 いうなれば、漫画界の深沢七郎、そういう趣がある。

 その、蛭子さんは、しばしば、ボクから見ると、いわれなき迫害をうけている。


   漫画家・蛭子能収の「クズぶり」をテレビで特集…感動的な場面で爆笑する姿にスタジオから悲鳴

                                 2014年11月14日 14時52分 トピックニュース

 (2014年11月)12日放送の「水曜日のダウンタウン」(TBS系)が、漫画家・タレントの蛭子能収の知られざる「クズ」な一面を特集した。
 同番組では、毎回芸能人が「自分が信じている説(うわさ)」を検証する。この日の放送では、タレント・勝俣州和が「蛭子能収を超えるクズ そうそういない説」を提唱し、「クズ」エピソードと関係者の証言をVTRで紹介した。
■「ランクが下」の人間には挨拶しない
 勝俣は、かつて蛭子に「(自分より)ランクが下の人間には挨拶しない」と聞いたという。勝俣は、松本人志らスタジオの出演者に確認したが、蛭子の挨拶を受けたものは一人もいなかった。
 番組に電話出演した蛭子は「挨拶された方も迷惑ですよ。いちいち挨拶された方が、受け止めると大変じゃないですか」と理由を説明した。
■自分のプリンを食べた子どもをマンガの中で惨殺
水道橋博士は、蛭子とプリンに関するエピソードを番組に提供した。あるとき、幼い息子の友人が自宅に遊びに来て、蛭子が大事にとっていたプリンを勝手に食べてしまったそう。蛭子は腹いせに自身のマンガで同じシチュエーションを描き、その中で息子の友人をバットで惨殺したという。
 電話出演で、蛭子は事実を認め「しょせんマンガですから。マンガの中だったら自由に人が殺せるんですよ」「現実には絶対やりませんよ」と語った。
■旅番組で店主を怒らせ、放送がお蔵入り
 蛭子と旅番組で共演する俳優・太川陽介は、ロケ中のエピソードを番組に提供した。蛭子と太川は、夕食シーンを撮影する店探しに苦労し、ロケは深夜に及んだそう。
 スタッフがようやく店を見つけたが、蛭子は注文した海老の塩焼きを目にすると「あっ、海老ちっちゃーい」とコメントしたという。スタッフは激怒する店主に謝罪したが、結局ロケは中止になったという。スタジオに繋がった電話で、蛭子は「食べた後に言ったんですよ。『小さいけど美味しい』って言ったんですよ」と弁明した。
 しかし、蛭子は「俺がもしそこの天ぷら屋さんだったら俺は怒りませんよ。そのくらいのことで怒る店主ってどうなんですかね」と手のひらを返したうえ、「もし海老が小さいと言われたら『お客さん、すみませんね。今日この近海では小さい海老しか採れないんですよ』くらい返せないんですかね」とグチっていた。
■妻の死から2ヶ月後で女子マネージャーを口説く
 プロインタビュアーの吉田豪氏は、蛭子の女性にまつわるエピソードを提供した。蛭子は2001年に妻を亡くしたが、妻の死後2ヶ月後には落ち込んだふりをして女子マネージャーを自宅に呼び、口説こうとしたという。
 VTRで、蛭子は「いっときも早く彼女を見つけたいなとすごく思ったんですよね」「誰でもいいやという感じになるんですよ。いや、ほんとなんですよ、これ」と当時を振り返った。
 番組スタッフが、悪いことをしたという気持ちはあるのかと尋ねると、蛭子は「ないですね、全然」「女の人であれば誰でも良かった」と答えた。
■武井壮が亡き兄を語る場面で爆笑
 武井壮は、亡くなった兄と坂上忍をめぐるエピソードを提供した。ある番組で武井は、兄の恩人である坂上の前で、感謝の気持ちを込めた手紙を読んだ。しかし、その場にいた蛭子は、神妙な面持ちの二人の横で爆笑していた。
 VTRで、蛭子は「数々の葬式にも行きましたけど、悲しい気分になったことがほとんどない」などと語った。また「恐らく、(坂上の態度は)まぁ演技ですよね。悲しくもないのに、悲しいフリして聞いてるんですから」ともコメントした。
 さらに蛭子が「あのまま悲しい話を聞くのはたぶん辛かったと思うんですね。他の人は(自分が笑って)助かったんじゃないかなと思ってます」などと主張すると、スタジオの観客は悲鳴にも似た声をあげていた。
 その他にも、番組には「賭博容疑で逮捕された後にカジノで遊んでいた」「孫に興味がないので名前を覚えていない」といった「クズ説」が登場した。しかし、蛭子は悪びれることなく、ひょうひょうとしたコメントを繰り返していた。
 ダウンタウンの松本人志は「めちゃくちゃやな。島流しやなアイツ」「国民がみんな呼び捨てでいい」などと蛭子を責めていた。 livedoor news より


 ボクはこの番組を見てはいないノデ、この記事の内容を一応の前提としてイコウ。

 松本人志さんは、蛭子さん本心からこけにしているはずはない。

 要は、平均的な視聴者への媚びである、いうなれば、視聴者の皆さんの気持ちを代弁している、笑いをとるために、ということだろう。

 でも、きっとこのごろの松本人志さんよりも、蛭子さんのほうが、残念ながら突き抜けた存在(認識者)であることを認めざるをえないであろう、(トニカク、コノゴロノ松本人志サンニ比べテデスヨ!)

 松本さん、近頃、あの宅配便のCMそのままに、誠に凡庸ではないか。

 蛭子さんといえば、バラエティや旅番組などでもまったく空気を読まないマイペースな発言を連発している“ミスター自己中”。本人も常々「誰かに束縛されたり、自由を脅かされることが何よりも大嫌い」と公言していて、自著『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)では、「長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる“友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要でなくなります。」とまでいっている。 LITERAより拝借

 たぶん、松本さんたちの「人の絆」が何より大切、空気を読む、とりあえず長いものには巻かれよう派のひとびとから見ると、蛭子さんは格好の嘲笑の対象なのだろう。

 でも、ほんとにそういう世間様の評価を鵜呑みにしていいのか、次に考えてみよう。

 そのために、これから蛭子さんの著作で勉強しよう。

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by ribondou55 | 2015-10-02 10:34 | よしなしごとあれこれ | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂