人気ブログランキング |

<   2014年 04月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 森崎東監督の『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)を観たのは、しばらく前である。

b0018682_21342735.jpg


 そして、HULUに『時代屋の女房』(1983年)を見かえしたのが数日前。

 感慨深いものがあった、なんていうと大げだが、30年前のボクは、まだ30代で、母もまだ還暦前であった。

 『時代屋の女房』を当時の時間帯で観た記憶がないからリアルタイムの感想は思い出しようもないのだが、振り返ってみると、1980年代前半の空気感をよく残しているように思えた。

b0018682_21352297.jpg

 1980年は、『おしん」が人気を博していた。それに対し2013年は、ジェジェジェの『あまちゃん』である。

 時代屋の安さん(渡瀬恒彦)は35歳の骨董屋を営む独り身の男である。そこに真弓(夏目雅子)が猫に誘われてふらりと現れ、そのままいっしょに暮らし始める。

 安さんは真弓の氏素性も過去も未来も尋ねない。

 そう、あの当時ボクらは、ふれあう人の心の奧に立ち入らない、今目前のありまま、それだけでいい、そんな感じでしか、ちょっと息がつけなかったような気がする。

 なんとアマちゃんだったことか。


  『ペコロスの母に会いに行く』は、ボクの世代が今当面する親の介護の迷いやしんどさを理屈っぽくなく、とてもいい感じで描いている。

 今朝の「天声人語」(4月29日)でも紹介されているように、原作は岡野雄一さんの漫画である。

 ボクの母も現在と過去、現実と空想が縦横に行き来して、混同することがおおい。

 それでも、少し前までは機嫌良くいろいろな話をしたのだが、このところはめっきり口数が少なくなり、眠ることが多い。

 ボクは、眠そうであろうとお構いなしに、顔を合わす度に、「あなたの次男の××だよ。」と、自己紹介し、ちょっと乱暴にお袋の薄くなった白髪の頭をぐりぐり撫でるのだ。

 昔、お袋がボクの頭を撫でてくれたように。

 (映画の主人公の息子は、はげた頭を撫でてもらうのだが、幸い?ボクは白髪だが毛は維持されている。)

 自己紹介が終わると、お袋はうっすらとした笑いで応える、それが次第にはっきりとしたほほえみになり、それから五分間ぐらいはしゃっきりした眼差しに変わる。

 しかし、五分程度、覚醒?が持続した後、再びもとの混沌としたまどろみに入ってゆくようだ。

 聞いているのかいないのかはっきりしない朦朧とした表情でも、ボクはぺらぺらと話しかける。

 カミサンや子どもたちにも云えない泣き言を認知症の母に、しきりに訴えている自分に気づいて、思わず苦笑ということもあった。

 惚けた母に会うのは辛いことだが、惚けてくれたので心を許せると云うことがある。

 母の側にいる間中、ボクは手を握ったり、顔を撫でたり、足をさすったりしている。

 人に見られたら恥ずかしいのだが、身体的な接触から反応を得ることが多い。

 握り返す握力の強さでボクが安堵するし、指相撲もできる、手のひらを抓ってきたりする。

 あるいは、甘えているのは、還暦を過ぎた次男坊のボクかも知れない。


 その昔、今のボクを、まだ長髪のお馬鹿だったボクには想像さえできなかったろう。


 映画は、力んでいない、悲惨ぶらない、説教くさくない、森崎監督の腕が冴える。

 何より気取りがなく品のよいユーモアが大切。

 普通に生きている人間をこんなに暖かく描ける監督は希だ。

 赤木春枝・岩松了の親子は、とてもいい親子だ。

 夕暮れて、薄暗くなった駐車場で息子の帰りを待つ春枝さんの姿は、ボクの母の姿の昔に重なる。

 
 追加(5月1日)*本屋で立ち読み。吉本隆明全集・月報(第一回)にお嬢さん(漫画家の方)が、おしりの始末をするのは形而下的行為、だが、手を握るのは、形而上的な振る舞いだと云うようなことを書いておられた。お父さんの介護の経験である。手を握るというのは、心が通ってしまう、ボクの経験からも、全くだと共感。でも、汚れたおしりを始末するのも結構、精神がきしんだ。吉本全集は、年金生活者のボクには購入が辛い、近くの図書館にリクエストしよう。それに、たぶん頭が活きている間に読み終えることは出来ないだろう。





 
by ribondou55 | 2014-04-29 18:57 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 山茶花の垣根なのだが、その数本がどうしたことか続けざまに枯れてしまった。

 隙間になった部分に同じ山茶花を植え直すのも面白くないので、ついついもらい物などを気まぐれに植えてきた。

 山吹は、秩父のとある民家の脇の藪に咲いていたのを、許しを頂いて、数株引っこ抜いてきて植えたものだ。

 それが数年で生け垣の一部の体をなした。

 
b0018682_23231670.jpg



 正岡子規の根岸の子規庵にも山吹が植えられていた。

 タイトルの子規の歌は、明治34年春に詠まれている。

 翌35年没。

 子規の歌集によれば、

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも (34年)が山吹を詠った最後の歌のようだ。



b0018682_018127.jpg 今日は、はっきりしないお天気だったので、こんな日は映画の日ということになった。

 『少女は自転車にのって』 (監督・脚本:ハイファ・アル=マンスール、2013年/サウジアラビア・ドイツ)を観た。

 サウジアラビアという国は,映画館のない国であるそうな。

 また、著しく女性の人権が制約されている国でもあるということも。

 こうした国で、女性が映画を作り上げるということは、とても困難なことであったろう。

 主人公の少女ワジダ役のワアド・ムハンマドがとてもしなやかでかわいらしい。

   この作品についての紹介は、NHKの[ワールドWave]『サウジアラビア 制約を受ける女性たちは今』(http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2013/11/1111m.html)がわかりやすいし、ボクもこの映画について知ったのもこの番組であった。

 つべこべ云うことは何もない、映画館を去る時の気分がとてもいい感じになる。

 変革への意志というものは、こんな風に静かに語られることで信じることができるものになるのだという、お手本のような作品である。













 

 

  

 


More 子規「山吹の歌」より
by ribondou55 | 2014-04-19 00:03 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 椿は勿論、山吹や利休梅には目が向いていたのに、ひっそりと梅の実がなっていたのに気がつかなかった。

b0018682_035367.jpg


 荒木一郎の『梅の実』という歌を思い出す。

  梅の実がなった この小さな朝に
  青く冷たい 朝もやの中に
  梅の実は 風のゆりかごに眠る
  やがて生まれる 子供のように
  あの空 あの雲 遠い調べよ
  山の頂きの 白い雪
 
 この歌、メロディがきれいなのでさりげなく歌われているが、歌詞の意味は、ボクには難解である。

 又、一茶には、

 青梅に手をかけて寝る蛙(かわず)かな 一茶

 があるが、季節は夏になるだろう。

この句、老いた一茶が若い妻に甘えている気分だという人もいる。

 さて。

 それに、坪井杜国は芭蕉の想われ人だったという説もある。

 そうな風に読むと、またそれはそれで、おもしろい。

 梅の実も隅には置けない



 熊谷は、乾燥していて最小湿度が8%であった、とか。









by ribondou55 | 2014-04-16 23:50 | この一首その一句 | Trackback | Comments(0)


チューリップ広い宇宙のここに咲く    泡六堂


b0018682_21502066.jpg


 庭先に咲いている。

 そのチューリップからほんの1メートルほどの所に放置されている水槽には、冬を越えて緋目高が棲んでいる。

b0018682_21584560.jpg

 
 そんな風に春なのにとても乾燥している。

 それでも絹さやの収穫、ほんの少しだが始まる。

 インゲンを直播きしたいと思っていたが、こうも乾燥していては畑であれば水やりが大変なので、ポットで苗を作ることにした。

 ついでに、キュウリ・トウモロコシ・下仁田葱も、ポットに蒔いた。


 『日本の文脈』(内田 樹・中沢新一)を拾い読みする、失礼ながら「個室」で。

 ところが、たとえばヴァレンタインデーにチョコレートを渡したときに、心がチョコレートと一緒に動きますでしょう。チョコレートというものだけじゃなくて、そこに込められた思いが移動します。もの+αで移動している「α」のことを、昔の人は「霊」と呼びました。(中沢)

 ボクが怖がっていたものが、何か、教えられたかも知れない。


 『桐島、部活やめるってよ』(監督・吉田大八、2012年)を昼飯を食べながら観た。昼は、配偶者が不在につき、日清チャルメラ(醤油)の卵とじ、葱大量、焼き海苔投入である。これは、独身時代からのボク流の食べ方だ。

b0018682_23412968.jpg
 映画は、たいへんいい。

 丸の内ルーブルを筆頭とした日本全国132スクリーンで公開され、初日は新宿バルト9で舞台挨拶が行われた。公開後は口コミにより話題となり、8か月にわたりロングラン上映された。
第34回ヨコハマ映画祭作品賞および監督賞をはじめ、第67回毎日映画コンクールで日本映画優秀賞および監督賞、第36回日本アカデミー賞では最優秀作品賞を含む3部門で最優秀賞を受賞したほか、出演者も多くの新人俳優賞に輝いている。
ちなみに8月に封切られた邦画が日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したのは1990年(第14回)の『少年時代』以来、22年ぶりであった。


 ウィキによると、そんなだそうだ。日本アカデミー賞というテレビ番組は当てにはならないが、評判がいいのはよく理解できた。

 橋本愛、東出昌大を続けざまに朝の連続ドラマに起用したNHKは、目端が利いていたということも、わかった。

 多分原作がいいのだろうが、肝心の「桐島」くんは完全不在という、それがこの映画のみそだというのはいうまでもない。

 しかし、不在だからと云って、桐島くんは透明人間ではない。登場人物には、それぞれの「桐島」がくっきりと見えている。

 云ってみれば「桐島」は、一つの基準的標識のようなもので、「桐島」と自分の差異を確認することで、自分という存在の有り様を確かめているかのようだ。

 その桐島くんがきれいさっぱり跡形もなく消えてしまった。

 さて、どうする。

 そう、そんな奴は消えてしまったほうがいいのだ。

 まず、誰もが己の中に飼っている「桐島」くんを、どっか土手の下なんかに捨ててきた方がいい。

 本当に、「桐島」くん、消えてくれてありがとう。

 教室内カーストなんて、くっだらないことだって、超越できる。

 

 そんな風に、高校生諸君は観たかな?


 

 
 
by ribondou55 | 2014-04-15 21:51 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 おもしろいとか、興味深いとか、そういうことではなくて、ああ、まったくその通りだと、いう感じであった。

 『ある精肉店のはなし』(監督・纐纈あや、2013年)を観た。

b0018682_10382133.jpg

監督さんのお名前は、はなぶさ、と読むのだそうだ。前作は見損なったので、この作品はと心がけていたのだが、深谷シネマで出会うことができた。

  大阪貝塚市での屠畜見学会。
  牛のいのちと全身全霊で向き合う
  ある精肉店との出会いから、この映画は始まった。
  家族4人の息の合った手わざで牛が捌かれていく。
  牛と人の体温が混ざり合う屠場は、熱気に満ちていた。

  店に持ち帰られた枝肉は、
  丁寧に切り分けられ、店頭に並ぶ。
  皮は丹念になめされ、 立派なだんじり太鼓へと姿を変えていく。

  家では、家族4世代が食卓に集い、いつもにぎやかだ。
  家業を継ぎ7代目となる兄弟の心にあるのは
  被差別部落ゆえのいわれなき差別を受けてきた父の姿。
  差別のない社会にしたいと、地域の仲間とともに部落解放運動に参加するなかで
  いつしか自分たちの意識も変化し、地域や家族も変わっていった。

  2012年3月。
  代々使用してきた屠畜場が、102年の歴史に幕を下ろした。
  最後の屠畜を終え、北出精肉店も新たな日々を重ねていく。

  いのちを食べて人は生きる。
  「生」の本質を見続けてきた家族の記録。
   ポレポレタイムス社MOVIES HPより

  水平社宣言に次の一節、「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。」の重さにもうたれた。

 この精肉店一家の稼業への誇りと家族の暖かさに学ぶことが多かった。

 



 
by ribondou55 | 2014-04-14 10:33 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 四月五日午後、よいお天気に誘われて、少しばかり散歩的サイクリング、・・・ポタリングというのだそうだが、に出た。

 遠目に見えてくる桜の高い梢や一群れの桜を目指して、集落に入り、目指した桜の下でちょっと憩い、再び、田畑の中の道を行くと、あちらに村社の森、向こうに禅寺の山門前の古木、などなどと見えてくる。

 そんな感じで、訪ねていった桜の下に小さなお堂があって、花祭りと小さな旗が揚がっていて、誰もいない。

 そのお堂に、誕生されたお釈迦さんがおいでであった。

 ボクは、手を合わせて、しばらく庭先のブランコにすわって休み、そして黙礼してそのまま帰宅した。



b0018682_23594886.jpg






by ribondou55 | 2014-04-12 23:59 | この一首その一句 | Trackback | Comments(0)
 昨日、越後出雲崎から帰って、今日は秩父へと出かけた。

 長岡辺りは、二三日前に桜が開花した。

 秩父は、盛りを過ぎて散り始めたところだ。

 いつものとおり、長瀞の法善寺から花巡りを始め、秩父の羊山公園の桜の下でにおにぎりを食べ、美の山に登って帰宅した。

b0018682_235129.jpg


 羊山公園は、芝桜より桜の方が好きだ。

b0018682_2383320.jpg


b0018682_2394410.jpg


 それに、武甲山もよく見える。

b0018682_2135058.jpg


 美の山は秩父の吉野山とか云われているらしいが、あながち言い過ぎとは言えない。

 美の山の桜は十分に一見の価値がある。

 それに、ここは桜だけでない、四季折々に楽しめる山なのだ。
 
b0018682_21364448.jpg


b0018682_21361481.jpg


 四月は、夫婦で秩父にかよう。


 来週は、小鹿野の春祭りである。


 今夜はひどい風だ。

 
by ribondou55 | 2014-04-10 21:36 | ちょっと、そこまで | Trackback | Comments(0)
 
 風が強く、寒い一日だった。

 予報では雪が降る可能性があるといっていたが、桜に雪という風情にはならなかった。

 強い東風が吹いたのだが、桜はまだ散りきっていない。

 入学式の季節になった。

遅き日に学生服の金ボタン    泡六堂

b0018682_827331.jpg


 録画しておいた『歩いても歩いても』(監督・ 是枝裕和、2007年)を観た、初めてである。

 これでこの監督の劇場用の作品をたぶん全部見たことになるのだが、この作品がボクには一番しっくりとくる。

 家族の機微を繊細に描いているというのが、もう定評なのだろうが、まったくその通りで、特に、親でアレ子でアレかけがえのない者を失った後の喪失感とどのように向き合ってゆくのかという、めんどうな問題が巧みに織り込まれている。

 巧みというのは、死んでしまった出来の良かった兄と、生きているちょっとはぐれ者の弟、それにその兄に何時までも思いを寄せる父親、この三角関係はよくあるパターンであって、珍しくないのだが、この監督はそれを退屈させることなく、家族の再生の物語にしているからだと思う。

 それは原田芳雄と樹木希林の力量もあってのことだろうが、つまるところ、ボクはこの世の無常ということを描いているからだと思った。

 人と人の関係もこの無常という真理から逃れることはできない。人の生涯はたかだか100年に満たないものだから、或いは一生行き違い続ける他者という存在があるかも知れないが、でも、その齟齬の色合いはゆるやかに、時には、刻々と変化して行くものだ。

 人がその家族に寄せる思いも、絶えず色合いも濃淡も移ろって行く、そして、移ろい止めない内に死んで行くし、・・・、死ぬまで移ろいの途上である。

 時間は流れ、人は変わってゆく。

 この映画の原題は『Still Walking』なのだそうだ。

 つまり、移ろうことの中に、何事かを生み出す可能性が保持されると思いたい。

 無常が「滅亡の姿」でるあることは確かなことだが、同時に希望へも開かれているということだろう。

 それにしても、子役の自然な演技がとてもいい、この監督さん、子どもの扱いは本当にピカ一。







 

 
by ribondou55 | 2014-04-06 21:00 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 雨が降ったり止んだり。

 午前中、昨夜来のお湿りがいい具合だと思って、畑に出た。

 短い畝を三本起し終え、小松菜と水菜と蕪の種を蒔こうとすると、大粒の雨が落ちてきたので、退却した。

 それからは、ぼんやりして、今。


 春炬燵アーモンドチョコな羊の日  泡六堂



 『東京公園』(監督・青山真治、2011年)を、昼飯の葱ツナパスタを食べ終え、正平さんの昨夜の『とうちゃこ・こころ旅』の録画を観た後、夫婦して炬燵で寝転んで観た。

b0018682_17234245.jpg

 ボクは、以前二三度観ている、妻は初めて。

 二人で、突っ込みを入れながら、カミサンは時々、うとうとしてた。

 最近観た『共喰い』は、どっどっと重くて、ボクはいいぞと思ったが、カミサンは気持ち悪いとまでいっていたのだが、『東京公園』はついて行けたようだ。

 〈男と女の間には,暗くて深い河がある〉と野坂さんは歌って居られたが、この映画でも、やはり抜き差しならない関係でありながら、それでも、やはり両者の間は、一本の河に隔てられているのだ、という。

 映画は、野坂さんのように〈エンヤラ今夜も舟を出す〉という軽さともあきらめともとれる覚悟めいた気持ちはなくて、もっと、ずっとやさしいのだ。

 やさしいからちょっと真剣。

 隔てられているのは、もう仕方ないことで、そんな風に、その隔たりを含めて温もっていこうぜ、という風な。

 とっても、やさしい作品。

 正面から向き合えば・・・、というメッセージもある。

 そうかな?




 昨日撮った二枚。

b0018682_16364280.jpg


b0018682_1638342.jpg


 どちらが、好きかというと、椿かも知れない。

 桜は散り、椿は落ちる。

 ボクは、落ちてしまった椿が親しい。


 それにしても、国際司法裁判所が2014年3月31日、南極海で行われている日本の調査捕鯨を中止するよう命じる判決。この国は、このごろ国際社会の「常識」に対してつっぱたり、甘えたり、・・・・、どうなっているのか?


 
by ribondou55 | 2014-04-03 17:15 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂