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 三叉路の理髪店前桜咲く    李凡堂

 彼岸が過ぎた。

 今年は、さくらの彼岸となった。

 墓参りも少し華やぐようであった。

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 ミモザも咲いた。

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 この間印象に残った映画は、『こころの湯』と「かくされた記憶』の二作。

 『こころの湯』(監督・チャン・ヤン、1999年)は、しみじみとした感動を呼ぶ。

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 このところの中国の経済発展の中でおそらくは失いがちになっているだろう家族の暖かな心の交流が身にしみる。なぜ失いがちかといえば、我々の国がそうであったからだ。高度経済成長期といわれた熱狂からさめて思い知ったことは、つまりこういうことであったではないか。
 老いた銭湯の親方を演じるチュウ・シュイは、すばらしい。

 『隠された記憶』(監督ミヒャエル・ハネケ、2005年)は、ちょっと理屈っぽい見方を要求されるので面倒くさい作品だった。だが、主人公のテレビキャスターが、いかにもパラノイアっぽくて、ボクの身の回りにも時折見かけた鼻持ちならないおっさんぶり。そこから、うすうす監督の意図に共感できそうな感じがあった。



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 それにジュリエット・ビノシュの熟女振りもあいかわらずよかった。

 「やましさ」という感情から人は逃れようとして、ますます馬鹿げたことの泥沼に入り込む。まったくもって、こまったことだと、・・・・我が身を振りかえったりもしたのだった。





 

by ribondou55 | 2013-03-24 22:55 | 咲いた咲いた何の花 | Trackback | Comments(0)
 秩父三十四観音霊場の巡礼にと、この数年来の密かな願いである。

 そこで、秩父鉄道主催の巡礼ハイキングの尻について、先ずはちょっと下見にと、出かけてみた。

 「下見」とは、誠に不謹慎、罰当たりで候。


 やはり、早速に観音のお叱りをうけた。

 一番のお参りが済んだ途端、SDカードがいかれたらしい。写真が撮れなくなった。

 コンビニでおにぎりでも買えばいいと、甘く見てもう少しで昼飯を食いっぱぐれるところになった。

 それに、一番問題なのは、山坂をこえてようやく参拝する観音様にまったく感激の心が湧いてこない。

 これでは巡礼の意味がない。

 否、そもそもが、己の心得違い。

 口先だけの般若心経になんの意味があろう。

 出直しは、近日中に。

 SDカードに残っていたのはこんな画像。

 一番札所にゆく道すがら、寄り道したお寺の石段に咲いていた。

 
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 そして一番札四萬部寺で。

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by ribondou55 | 2013-03-17 23:02 | 世界は昏いか? | Trackback | Comments(0)
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 三寒四温というのか、春になった。

 今朝、久しぶりに散歩した。満作の花が盛りだった。満作は、はっきりとはしないが、「早春に咲くことから、「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものともいわれている(wuki)」のだそうだ。

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 『遠くの空に消えた』は、2007年公開。行定勲監督・脚本によるオリジナル作品であるそうだ。

 TUTAYAでは、旧作100円、BOOK OFFでは、105円本の棚でしか物色しないので、これもそこから抜いてきた。この週のもう一本は、『濡れた赫い糸』(監督・望月六郎、2005年)R-15である。この作品は、それなりにいい感じだった。2005年というより、もう一昔向こうのまだ人々が心地よく愚かであったころの「新地」の男女の物語だった。どちらにしろ、ボクは高岡早紀をいいなとずっと思っている。この映画でもなかなかである。でも、この作品は置いておく。

 『遠くの空に消えた』は、行定監督の作品の中でどのような位置づけなのかボクにはまったくわからないが、一部には期待外れという声もあがりそうな作品だった。
 まあ、盛りだくさん。さまざまのアイデアがてんこ盛りという感じの作品である。それが、うまくかみ合ってすっきりと収まっている感じがしない。そういう、印象を持たれやすいだろう。

 でも、ボクはあまりそういくことは、気にならない。

 気になったのは、宮沢賢治的、あるいは、宮沢賢治の影、または、宮沢賢治へのあこがれ。

 どうも、これはどうなのだろうな。

 震災以後、絆とか友情とか、人との関係が至上の価値のように、この国に垂れ込めている。
 
 また、さっこんのいじめ・体罰撲滅への「国民運動」がある。

 うっとうしい。

 『遠くの空に消えた』でも、友情ということが取り上げられてゆく。

 だが、ジョバンニのカンパネルラへの友情は、ボクには「片思い」でしかないにように思える。本田三郎は、村の子供たちから最後には疎外されてゆく。宮沢賢治の描いた子供たちの「友情」は決してみんな仲良くいたしましょう、なんて云ってはいない。むしろ、ひとは子供も大人もとっても孤独な存在だと、きっと、賢治さんは寂しい少年だったに違いないと、ボクは思っている。

 多面体のようにみえる宮沢賢治だから、とても使い勝手がよいのだが、『遠くの空に消えた』には、苦さがない。

 しかし、だからといってこの映画に魅力がない訳ではない。宮沢賢治がこうも多くの人々から愛されるのは、彼が、おもちゃ箱のような存在だからだと思う。この作品もいい大人が、まるでどこかに置き忘れていたおもちゃ箱を取り出してきてひっくり返した風情がある。お話の筋としてある空港建設反対のカーニバルも然り。

  それと、多彩の配役。いくらでも見るべきものはある。お勧めだ。


 ボクは、もうろくして、田舎暮らし。

 静かな生活。

 「関係」は心情的である必要もないし、倫理的であることもいらない、まして、思想的連帯なんてお笑いだ。

 ボクが望む「関係」は、協力するべき時には黙って連携できる、互いに尊重しあう、欲をかかない。そんなことかな。

 ボクがこのところ一番嫌いな言葉は、「元気を与えたい」「元気をいただいた」。なんという、チャラケタ言葉か。
by ribondou55 | 2013-03-15 23:33 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 山田の春祭を見にゆこうかと寝床の中では思っていたが、朝飯を食べていると、秩父までの運転が面倒になってきた。

 そんなであったら、高崎で『千年の愉楽』が上映されていることを思い出した。


 高崎までの車中、窓の外が土色に煙っている。

 北関東に住んでいれば、冬の強い季節風が田畑の乾いた砂埃を巻き上げて、辺り一面を砂嵐のように視界を遮ることがあることを知っている。

 だが、そんな風には思い当たらず、JRも最近はつまらん合理化で車両の窓ガラスさえきれいに洗えないかと、そんな感じで眺めていた。

 高崎駅におりて、駅の北側のヤマダ電機前の陸橋上にでると、ビルの間から体を押し返すような勢いで風が吹きつけてきた。それに、奇妙に暖かい。

 いやな感じだ。

 「最終決算」「最終決算」の看板文字が店内におどっている。購買意欲を刺激することに躍起となった店員が右往左往している、そんなヤマダを一巡りして、どこかで昼飯でも食っておこうと、駅の南側に回ると、今度は、ぴしぴしと砂粒混じりの風が顔面を打ってきた。カラカラに乾いた強風が髪をなぶる。

 空は、土色の雲が太陽の光を遮り、薄暗い。

 枯れ木のような街路樹がぶるぶるぶると震えながら、大きく揺れている。

 飲み屋の鉄製の看板がひっくり返っている。

 その上、暗い灰色の雲も足早に流れてきて、時折、ぱらぱらと雨粒が顔を打つ。

 車いすの青年が、信号前で立ち往生している。

 土砂は目にも喉にも侵入しそうだ。仕方ないのでローソンでマスクを買った。

 もしかして「黄砂」って奴、と思ったからだが、いやいやこれは、地元の土埃、電車の中で見たあれだと、とりあえず避難しようと飛び込んだ「すき屋」の並盛りを食いながら、・・・・・やれやれというわけであった。


 『千年の愉楽』《2013年)は若松孝二監督の遺作となった作品であるから、観ないわけにはいかないだろう。

 まして、中上健次を若松が、である。


 ひとつ、果たして寺島しのぶの「オリョウのおばあ」でよかったのかとも、・・・・・、でも、やっぱり、若松作品では寺島しのぶさんですな、とも。

 いまひとつ、奄美の中村瑞希さんを起用したのはとてもよかったと思う。監督のアイデアが効いている。

 それに、本編を観た上でゆーちゅーぶの予告編を観たら、これがとてもいい。オリョウも、中本の男たちも美しい。

 もう遠い昔読んだ作品のことは忘れている、書棚から探し出すのも面倒だ。

 

 映画館を出たら、穏やかに晴れていた。

 今日は、3月10日である。

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by ribondou55 | 2013-03-11 00:56 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 
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 暖かな夕暮れである。

 日中は20度を超えた。

 通りかかった国道17号の道端の河津さくら。三分咲きというところか。

 春の夕暮れは、見えるものすべてが、おおむね美しい。

 こんなものまでも、

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 しかし、しかしだが、人並みに心中では、こんな言葉が今一番の拠り所。

 念仏の行者は智恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をすて、貴賎高下の道理をすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもつともかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなうれば、仏も我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず厭うべからず。   一遍上人

 うたれるではないか。

 
 つくづく、こだわりばかり、己自身から解放されない自分が疎ましくてならない。

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   妻ありて慣れなれしくレタスをちぎる     李凡堂






by ribondou55 | 2013-03-09 18:21 | 咲いた咲いた何の花 | Trackback | Comments(0)

水面を滑りまわって世を過ごし、その上、空を飛ぶ羽も持っているあめんぼは、老蛙の憧れだ。


by 泡六堂