人気ブログランキング |

カテゴリ:読み捨てご免( 26 )

b0018682_23025956.jpg


午前中、畑にすごす。

スコップで土を掘ったり、鍬をふるったり、マルチ張りで地面を這いつくばったりして、すっかり、日に焼けてしまった。

この辺りには古墳もおおいのだが、古代人たちも基本的には土を耕し、種を蒔き、風や日照りを心配しながら、なんとか収穫にたどり着くことを願っていただろう。

多分、その願いの強度は現代人より遙か強いはずだったろう。

そんなことを妄想しながら、作業をしていると、なんだか愉快になってきた。

午後は、酒井順子訳「枕草子」を読んだ。

とっても、楽しかった。

橋本治の桃尻誤訳「枕草子」も、再読してみようと思った。




by ribondou55 | 2017-05-07 23:16 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 徒然草第百十七段にこうある。

 友とするに悪き者、七つあり。
  一つには、高くやんごとなき人。
  二つには、若き人。
  三つには、病なく、身強き人。
  四つには、酒を好む人。
  五つには、たけく、勇める兵.
  六つには、虚言する人.
  七つには、欲深き人。

 友といえる者など今はどこにもいない、引きこもり老人である小生が云うのも滑稽だが、実に、兼好さんは的確ではないか。

 友とするのに、よくないものが七つある。
  一には、高貴な身分の人。
  二には、年少の人。
  三には、無病頑健な人。
  四には、酒の好きな人
  五には、武勇の人。
  六には、虚言家。
  七には、欲の深い人。 (佐藤春夫訳)

 佐藤の訳は、紳士的だからピント来ない。

 もっと口汚い言葉が、小生の頭には浮かんでくると同時に、ああこれは彼奴だ、これは此奴だと、具体的な人物の顔まで思い浮かべることができる。

 小生は、生まれも育ちも並の下辺りだから、ゆで卵のようなつるんとした表情のボッチャン、ジョーチャンは、大嫌いだ。
 ガキも不愉快、ぷりぷりした若者の身の程知らずには、こちらのほうがいたたまれなくなる。
 マッチョは馬鹿だと信じている。
 酒を吞まないと、自分を維持できないという輩とは、口も聞きたくない。
 勇ましいのに限って、長いものに巻かれやすい、強きになびき、弱きをいびる。
 どこぞの宰相の如き嘘つきは、泥棒どころかひとでなし。
 自己実現に意欲的なんていうのは、欲が深いだけだと思う、くわばらくわばら。


 というわけで、小生に友はいない。



b0018682_21243156.jpg


 庭先に、咲いた.





by ribondou55 | 2017-04-08 21:25 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 「わたしは、自分がだれだかさがしあてるために旅に出ました。でも、だれ一人として、わたしにそのことを教えてくれるひとはありませんでした。ちょうど、港町の〈靴の船〉という酒場でひと休みしていたとき、もと、この病院の看護婦をしていたというホステスのガーゼという子が教えてくれました。思い出内科へ行けば、”思い出の注射”をしてくれる。そうすれば、味気ない過去のかわりに、楽しい過去が体に入りこみ、人生が楽しくなる、と」
 レインコートのおじさんの表情は、まさに真剣そのものでした。
 「おねがいです。だれのだってかまわないのです。わたしに、楽しい思い出を注射してください」
   『思い出の注射します』 寺山修司・赤糸で縫いとじられた物語より

 さて、・・・・。

 味気ない過去、まあ、そうだな、だからといって、注射は嫌いだ。

 味気なくとも自前の過去で我慢しよう。

 年の初めに、そう思うのだ。


b0018682_23530901.jpg

by ribondou55 | 2017-01-04 23:53 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
b0018682_09211808.jpg


 亡くなったのは、2009年5月2日である。

 この本は、8月に刊行された。

 遺作といってよいのか、どうか分からないが、名著である。

 なん箇所か引用しようかと思ったが、隅から隅まで面白くて、選べないので、止める。


 昨夜、なんだかわけの分からない国民的?アイドルグループの解散劇があった。

 忌野さんは、あの世から、どんな風に眺めているのだろう。




by ribondou55 | 2016-12-27 09:35 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 長新太を、例えば奇才の人とかいっても、何の紹介にもならない。


 
b0018682_19045537.jpg

 云うなれば、怪人チョー・マンチューをして、かく言わさしめる存在だ。

 ボクが長新太にであったのは、『話の特集』に連載された「トンカチおじさん」だった。

 前代未聞のマンガであった。

 たまげた。

 以来ずっと。



 長新太の絵本、これこそがどれもこれも大変な代物で、二人の子どももおどろき、あきれ、そして、今頃なら川の字になって、ぬくぬくと蒲団にくるまり、げらげら笑ったものだ。

 親子二代、はまってしまった。

 今となっては、なつかしい。



b0018682_19222828.jpg

 「これが好きなのよ 長新太マンガ集」(亜紀書房・2016/11/7刊)、楽しい。



 

by ribondou55 | 2016-11-27 19:23 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 石田比呂志の第15歌集「萍泛歌篇」を拾い読みした。

 本の帯に「短歌によって人生をめちゃめちゃにし 短歌によって救われた人生ーー。

 市井の暮らしを詠って輝く詩魂と反骨の魂を持ち続ける歌人のだい15歌集。」

 とある。

 ここに、あげておきたい歌は数々あったが、面倒なのでやめる。

 
 今年で、畑の隅の柿は植えて三年目、桃栗三年柿八年というが、植木市で買った時、そもそもあの木は何歳だったのか?

 昨年は、期せずしてたくさんの実を付けた。

 配偶者は大の柿好きで、彼女の強いリクエストで植えたのだが、そんなだから、今年を大いに期待したのだが、今現在、数えてみると七つだけ実を付けている、残念な出来具合だろう。

 そろそろ、食べ頃になる。

 熟しすぎて、地面におちる実は、今年に限っては、まずあり得ない。


 烏にも喰われずに、最期まで枝に張り付いていたとしても、熟しきった柿は地面に落ちる、これは定めだ。

 で、ボクがそこ「土に音して」というのが、ちょっと身にしみる。

 ベチャ?ボショ?グチャ?・・、どんな音がするかは分からない。

 でも、無音ではないはずだ。

 まあ、そこが哀しい、すべからく

 生き物は重さを持っている。

 重さは、哀しい。


b0018682_23122657.jpg

 中には、こんな風に軒先に干されて、喰われてしまうこともある。

 ね。




 



by ribondou55 | 2016-10-29 23:14 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

老いぼれてゆく団塊

 小田嶋隆著「ザ・コラム 2006/2014」を楽しく読んだ。

 楽しいといっても、著者の意見にすべて共感出来るわけではない。

 「って、やんでェ」といいたい箇所も結構あるが、それも面白さの一部である。


 特に、冒頭の「天国への団塊」というコラムで、「団塊」に遅れて『団塊の連中がまき起こす砂ボコリの中を歩くほかに選択の余地を持っていなかった」著者が、団塊世代への恨み辛み憎まれ口をぐずぐずと言い立てていて、まあ、楽しい。

 楽しいのは、ボクが団塊の尻尾当たりに生を受けているとしても、著者が唾棄するがごとくはき出す団塊批判の、例えば団塊の目に余るほどであった「身勝手さと助平」、ということについても、そこまでボク個人としては、言われる筋合いはないなと、我がこととして反省しようという気はさらさらおきないからだ。

 身勝手ということでいえば、そんなことは屁のようなもので、団塊の前にも後にも、誰も彼もひり出していたし、今だってそうだ。

 身勝手らしく見えない奴は、どちらかというと、様子見に長けた狡い輩としかボクには思えない。

 助平というのは、これはもういたしかたないものである。


 とはいえ、自分のことはさておき、同世代のあいつこいつ、あの子この子の顔を思い浮かべると、確かに、著者が軽蔑しつつも、羨むような、団塊臭を発散していた人間が確かにいた。

 いまだに、性根が変っていない奴らもめずらしくない。

 この頃の高齢者の過剰な「色と欲の生きがい探し」のエネルギー源は、そのあたりにありそうな気がする。


 勿論、小銭持ちの団塊老人がピンピンと、私生活に於いても「総活躍」して貰わんと、お金が回らなくなるので、お国と資本家は困るのだろう。

 だが、いい加減にしてほしい。

 いつまでも、ピンピンではいられないのだ。

 ボクの住むあたりでも、毎朝夕、デイケアホームの送迎車が走り回っている。

 こういうのを、「長寿の国」というのだろうか?と、時々絶望的な気分になる。

 かといって、さっさと浮き世からグッドバイ、・・・・・そう簡単にはいかない。

 「おい、穀潰し、どうしたい?」と、自分に問いかけてても、ぐうの音も出ないのだ。


b0018682_00003458.jpg

 

 

 

by ribondou55 | 2016-10-28 00:00 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
b0018682_15484112.jpg




 我が家のトイレ脇にある本箱は、数十年にわたって何時かは読もうと思って買ってきた本が、ぞろっと押し込んである。 

 そういうのが、キッチンダイニング隅の書棚や、無用になった子ども部屋の押し入れや、三畳半の書斎の壁一面に出番を待っているが、たぶん多くは日の見ることはないだろう。

 背表紙だけではなく本文までが黄ばんできた奴も多数。

 ボクが死んだら、すぐに処分、そう子どもたちは憎まれ口をたたく。

 で思うのだ、できたら古本屋などには売らずに、一緒に火葬は無理だから、焼却場へもっていってと。

 ボクの蔵書である、稀覯本なんぞ一冊もない。

 あの世でゆっくり読みたいのではない。

 ボクは死後に自分の本箱が覗かれるのが、イヤなのだ。


 トイレ脇の本箱から、今朝は寺山修司の「赤糸で縫いとじられた物語」を手にして、便座に腰をおろした。 

 その昔、心ときめいた、めくるめく寺山ワールド。 

 童話集である。 


  なぞなぞ たてろ 
  同じ鳥でも飛ばないとりはなあんだ? 

  それはひとり という鳥だ    

 『壜の中の鳥』のボク的には、挿入歌である。 


 さて、トイレに、適した本かどうかは、分かりませんが。



 

by ribondou55 | 2016-09-18 16:25 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

『教団X』など

 中村 文則著『教団X 』、面白く読んだ。

 今に生きるボクラがつまずいている、バカバカしいほど膨大なあれやこれやに、立ち向かおうとしている作品であった。

 このところ、このごろに発表された小説から離れていた。

 巻頭から読みすすむ、当たり前のことだが、読むという行為を継続している間は、面白い。

 だが、一気に読み通すというわけにはいかないので、読み止しで、また明朝続きをと。

 しかし、翌朝にはこの本のことをすっかり忘れている。

 そんな調子であったので、その場限り、知りたいことだけをつまみ食いするような読みのものばかりが続いていた。

 だが、『教団X』については、二日半の間、断続的に手に取って、読み終えた。

 この頃にしては、珍しい。

 何かに刺激を受けていたのだろ。

 その何とは、だいたいわかっている。

 が、数日の内に、それも忘れるだろう。


b0018682_2237463.jpg



 抑(そもそも)茶湯の交會(こうかい)は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會ににふたゝびかへらざる事を思へば、実に我(わが)一世一度の會(え)なり。さるにより、主人は萬事に心を配り、聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう、深切(しんせつ)實意(じつい)を盡(つく)し、客にも此會に又逢ひがたき事を辨(わきま)へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、實意を以て交るべきなり。是を一期一會といふ。

 「一期一会」という言葉の出典であるそうだ。

 井伊直弼というお方が唱えた「おもてなし」の心得である。

 
 ボクは、この言葉を長いこと仏教由来の言葉だとかってに思ってきた、無知である。


 ボクは、この言葉の意味をこんな風に妄想していた。

 人の人の関係は、一瞬の縁。

 出会いえば、誠実に対することもあり、嘘を並べることもあり、好悪の感情も動くが、どうであれ一つの出会いは終われば、チャラになる。

 いうなれば、面倒くさい「縁」は、一瞬ではないにしても、「ひと時」のこと。

 勿論、「ひと時」とは、比喩である、人の人生の長さは星の瞬く間にも及ばないと、いうことと同じであるが。

 そういう言葉としてボクは思ってきた。

 都合のいい言葉である。

 関係がチャラになれば、その関係への執着が消えるかもしれない、いや消えることを望んでいる。

 これが、楽になれる筋道である。

 それでは、寂しくないかと云われるだろうが、寂しいのがもともとのボクの姿だと。

 まあ、まっとうな心の持ち主からは、心の狭い老人の僻事といわれて当然。


 『教団X』の読後感ではないが、思い浮かんだので書いておく。


 台風10号が、去ったら、4.5日間、一人で遠出する。

 鉄道が止まったりしないように。






 
 

 
by ribondou55 | 2016-08-28 22:37 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 現代訳「旅行用心集」(八隅廬菴著・桜井正信監訳、二〇〇九年刊・八坂書房)を手にした。

b0018682_10351017.jpg


 刊行は、文化庚午6月、つまり、1810年(文化7年)、ほぼ200年前の旅行のガイドブックである。

 自序のよれば、主にお伊勢参りに旅立つ人々向けの案内書のようだが、それにとどまらず、「諸国温泉、 二百九十二ヶ所」なども掲載する。

 その温泉湯治の注意事項を読んでいると、つい先頃訪れた温泉での配偶者の様子に、あまりにぴったりなので、吹き出した。

 廬菴先生はこのようにおっしゃる。

 湯治にあったって、病気に合う湯、合わない湯とがあるので、この区別をおろそかにしてはいけない、では、どのように見分けるのか?

 一 湯治に行って、その温泉が自分の病気に効くか効かないかを確かめるには、最初一、二回入った後、腹が空いて食べ物が美味しい場合は、効く温泉だと思えばいい。もし、一、二回入っても、腹が張って食欲が増さなければ、大体病気に合わないと思うこと。とにかく行った先の湯宿に病気のことを詳しく話してから、湯に入りなさい。まあ、二、三日入ってみれば、しぜんにようすがわかってくるものだ。

 と。

 過日、配偶者は宿に到着して、風呂に入り、それから夕食となったのだが、あら不思議、その日の昼飯はもりもり食べきったのに、旅館料理を目の前に箸を取らないのであった。

 胸が詰まるようで、食欲がないという。

 なんと、驚くべきか。

 この人は、旅先の旅館飯を食べ残すことは、絶対にこれまでなかった。

 ついに、ほとんど箸を付けずに夕食を終えた。

 その宿の湯は、正真正銘の源泉掛け流し、まことにイイ湯であったのだが、この湯にどうやらあの人はあったったらしい。

 そのお人の様子に、ボクとて大いに心配せざるを得なかったのだが、夕食後のイベントにはケロッとして機嫌良く参加した。

 翌朝は、いつのようにパクパクと沢庵一切れすら残さず食べたので安心したのだった。

 そんなこんなで、そこまでは、どことなく怪しげな廬菴先生のお言葉だと思っていたのだが、ボクは、この箇所に至って、大いに信用すようになった。



 この書は、ほんとうに現代のボクラでも、心得ていれば、大助かりのことが、満載である。

 あまりに、多いので、ここに書き写すのは面倒だから、ここまで。






 

 

More [旅行用心集」
by ribondou55 | 2016-07-30 11:24 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31