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カテゴリ:読み捨てご免( 29 )

 
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素敵におかしい。

是非極楽はそうであって欲しい。



「笑う子規」(正岡子規・著、天野祐吉・編、南伸坊絵、筑摩書房・2011)。

大好きな一冊。

時折とりだして、笑う。




秋の句から、

いくつか、拾ってみる。

云うまでもなく獺祭書屋主人こと子規先生のお作である。


枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル

秋の蚊のよろよろと来て人を刺す

螽焼く爺の話や嘘だらけ

からげたる赤腰巻きや露時雨

渋柿は馬鹿の薬になるまいか

ツクツクボーシツクツクボーシバカリナリ


パチパチ👏











by ribondou55 | 2019-09-01 14:46 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 
 山田風太郎著『あと千回の晩飯』1997年・朝日新聞社刊。

 書名となった『あと千回の晩飯』は朝日新聞・朝刊で、

 平成六年十月六日から平成七年三月二十七日(正)、平成七年十月五日から平成八年十月十六日の間、連載された文章でアル。

 つまり、西暦で云うと1994年から1996年の間である。

 二十五年前と云えども、このボクが、新聞連載時、風太郎さんの文章を気にとめなかったハズがない。

 この『あと千回の晩飯』という題名は、記憶の底にぼんやりあったのだろう、

 過日、いきつけの図書館の書棚にこの背表紙を見いだした時、はっと閃くものが在った。

確かに、書物は読者を呼び寄せるものなのだ。

冒頭、つまり連載の初回にこうある。


 ◎遠雷の音

 いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだと思う。
 といって、別に今これといった致命的な病気の宣告を受けたわけではない。七十二歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴と云うべきか。


こんな書き出しで始まっていた。

二十五年前のボクは、人ごとのように、面白ガルだけで、読み過ごしただろう。

だが、今、七十歳を過ぎてみると、ボクにも「遠雷の音」はきちんときこえているのだ。

「遠雷の音」とは、致命的な病気の宣告、つまり、「死」の宣告である。


つひにゆく道とはかねてききしかどきのふけふとはおもはざりしが

「死」に当面して呆然としている、「伊勢物語」の伊達男、在原業平の辞世の歌を引き合いに出して、

この「つひにゆく」を「ついにくる」と言い換えて老いと解釈すれば、人生はまさにその通りだと、

風太郎さんはおっしゃる。


そして、二年後の連載最終回を前に

私は七十四歳という望外の長命を得たが、果たして何らかのメリットあったかと自問する。

自分自身は老来何かと不便な事が多く、長生きに余得があると思えない。

中でも、映画女優を見るのつけ手も、昔のように圧倒的美女が、近来稀になった。

又、かつての此の世のものとも思えないほどの美女が、四十,五十となり、

テレビなどで「美女の果て」を見る羽目になった。

長生きのデメリットの好例だ.

などと、おっしゃる。

ボクも、全くだと思いつつ、あの人とこの人と思い浮かぶ。

さて、最終回。


◎死こそ最大の滑稽◎

 自分が年をとるのは何でもないが、美人の年を取るのを見るのは、なんともうら悲しい.
 実を言えば世の中に美人が少なくなったというのは、私の錯覚に違いない.(中略)美人が美人に見えなくなったのは、老いの致命的な証にちがいない。
 要するに近松門左衛門じゃないけれど、いまわの際にいい遺すべき一言半句を私は持たないのだ。
 先月下旬から某病院に入院し、白内障の手術を受けた。その結果、白内障の方はよくなったが、網膜出血の方は元に戻らない。糖尿病やパーキンソンは依然として元もままで結局私は中途半端なまま、あの世に行く事になるだろう。
 いろいろ死に方を考えてもたが、どうもうまくいきそうもない。私としては滑稽な死にかたが望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。
 ただ、死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆる事を、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る。
 あるいは死ぬこと自体、人間最大の滑稽事かも知れない。


と、締めくくられた。




ちなみに、近松の辞世の句はこうだ.


それ辞世 さるほどさるも その後に 残る桜の 花し匂はば


で、長文に疲れたので、明日に続く。


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保存したら、フォントサイズが、メチャクチャだ。


補記


一夜明けて、続きである。


風太郎さんは、2001年にお亡くなりになった。

戒名は、風々院風々風々居士、墓標には「風ノ墓」と。

近松は臨終に当たっていう言葉など何もない、だだ己が心血を注いだ作品が後世にも匂い立てばそれでいい、という。

死について、ボクラは口のするしないにかかわらず心中では多くのことを考える。

お釈迦様は、生病老死の四苦こそが人生の本質だと云われた。

ボクはこの頃、全くそうだなと、フト思うことがある。

しかし、悩み苦しみ千萬言を費やしても、死んでしまえば、まったくの静寂、言葉はない。

だったら、あれやこれや七転八倒することが、滑稽ではないか。

ではどうする。

面白おかしく暮らせばいいのか?

ボクは困る。

七十,八十になっても、今が青春なんておっしゃる方なんぞは、まぶしすぎる。

さてさて、どうする。

やっぱり、ぐずぐず、うじうじしながら、年寄り臭く、死ぬまで生きるのだろうか。

まことに、花菱アチャコ師匠のこの一句が、ボクの本音である。


 むちゃくちゃでござりますがな。










by ribondou55 | 2019-06-21 17:28 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
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名も知らない女へ   大手拓次

名も知らない女よ、
おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、
そして その瞳は小魚のやうにはねてゐる、
おまへのやはらかな頬は
ふつくりとして色とにほひの住処すみか
おまへのからだはすんなりとして
手はいきもののやうにうごめく。
名もしらない女よ、
おまへのわけた髪の毛は
うすぐらく、なやましく、
ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。
「ねえおつかさん、
あたし足がかつたるくつてしやうがないわ」
わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。
うつくしい うつくしい名もしらない女よ





本日、梅雨入り




遠くで、遠くから徐々近づいてくるサイレン、長く長く、・・・・・




・・・・・、遠くに消えて行く、ゆっくりと、消えていった。








by ribondou55 | 2019-06-07 13:59 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

初夏無題  尾形亀之助

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   初夏無題    尾形亀之助


   夕方の庭に鞠がころげた

   見てゐると
   ひつそり 女に化けた躑躅がしやがんでゐる






自給菜園から胡瓜も穫れだした。

だが、ウリハムシは徐々に勢いを増していて、退治は不可能だ。

レタス苗を植えた。

向日葵を5本植えた。

梅雨が待たれる。

畑は乾燥してカラカラだ。


来週、円空仏を観に、高山方面へ行く。







by ribondou55 | 2019-06-05 23:03 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
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 文藝春秋六月号、村上春樹『猫を棄てるー父親について語るときに僕の語ること』を読んだ。

 村上さんの父上は、大正6年生まれだと知った、さらには、輜重兵であったという。

 
 ただの偶然であるが、ボクの父と生年が同じ、当方の父は輜重兵の配下である輜重輸卒、これは違い。

 三度の招集をうけ、三回目は身体虚弱につき即日帰郷となって、テニアン島での玉砕を免れた。

即日帰郷には参ったらしく田舎にとどまったまま、母の待つ東京へ随分してから戻ってきたのだという。

この経緯は、母から聞いた。


 輜重輸卒というのは「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶や蜻蛉も鳥のうち」と揶揄されたそうだ。

そんなことも父から聞いた事ではない。

母から聞いたこともない。

 水上勉さんは、その輜重輸卒であった、その体験のもとずく『兵卒の鬣』という作品がある。

輜重輸卒は軍需品の輸送を担う馬たちの世話をするのが主な任務であった。

 云うまでもなく馬は貴重な戦力であるが、輜重輸卒の命など一銭五厘の価値しかなかった。

 ボクの父は、自らの軍隊での経験を語ることはなかった。

一つだけ、云ったことは、なぜ戦死せずに今在るのかということだけだった。


 なぜ?


それと、ボクの家にもいつも猫が飼われていたなあ。


この自伝的な「小説」は、『父親について語るときに僕の語ること』とあるように、いまの「僕」が語っておきたいことが語れているのだ。

 例えばこんな・・・、引用は止めよう。











 

 

by ribondou55 | 2019-05-16 23:38 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

羊男
 
「気をつけるんだよ。殺されたくなければ、気をつけた方がいい。戦争というのは必ずある。ないということはないんだ。ないように見えても必ずある。人間というのはね、心底殺しあうのが好きなんだ。そしてみんあで殺し疲れるまで殺しあうんだ。殺し疲れるとしばらく休む。それからまた殺しあいを始める。決まってるんだ。誰も信用できないし、何も変らない。だからどうしようもないんだ。そういうのが嫌だったら別の世界に逃げるしかないんだよ」(村上春樹「ダンズ・ダンス・ダンス」141ページから142ページ)



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令和の始まりに当たって、思い出した羊男の言葉。





by ribondou55 | 2019-05-04 18:16 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

「霧」のオノマトペ

 
 前回の宮沢賢治つながりで。

 
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 宮沢賢治を語る書物は、あきれるほど世に存在するが、この本は一風個性的で好きだ。

 帯に「賢治の童話のなかから157のオノマトペをご紹介します。」とある。


 例えば「霧」に関するオノマトペ。

 今日は陰気な霧がジメジメ降ってゐます。「貝の火」より

 霧がツイツイツイツイ降って来て、あちこちの木からポタリッポタリッと雫の音がきこえて来ました。「十力の金剛石」より

 霧がトントンはね踊りました。「十力の金剛石」より

 霧がポシャポシャ降って、もう夜があけかかってゐます。「貝の火」より

 きりはあめにかわり、ポッシャンポッシャン降って来ました。「十力の金剛石」より


 面白い。


 ボクの持っているのは古い「校本 宮澤賢治全集」だが、その第七巻のどこのページを開いても、行間にオノマトペが跳ね回っている。

 オノマトペを多用する文章は、幼稚なものになりやすいと、昔どっかで聴いたか読んだかしたが、賢治童話では大きな魅力の一つだ。

 
 オノマトペの使い手でもあった中原中也は、賢治の詩についてこういった。

 宮澤のオノマトペがどこからやってくるかという問いのヒントになるような気がする。


 彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶまゝを、――つまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。
 彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあつたのです。彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さへすればよかつたのです。



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by ribondou55 | 2019-02-02 00:11 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
 
内山知也さんの『良寛詩 草堂集貫華』を拾い読みしている。

「草堂集貫華」は良寛の自筆詩集で、全二十四葉、百十七首を収めている、本書はその注釈書である。

ボクのようなものにもわかりやすい註解で、失礼ながら、手元近くにおいて三、四首づつ読んでいる。

愉しい。

そこで、さきほど読んだ詩。

   生涯 身を立つるにものうく、   
      私は生涯ひとかどの人になろうというような気にならず、
   騰々 天真に任す。
      自分の天性のまま自由自在に生きてきた。
   囊中 三升の米、
      食糧と云えば袋の中に三升の米、
   炉辺一束の薪。
      燃料と云えば、炉辺に一束の薪があるばかり。
   誰か問はん 迷悟の跡、
      迷ったの悟ったのという修行の跡はすっかり払拭し、
   何ぞ知らん 名利の塵。
      名聞利養への執着心など全くない。
   夜雨 草庵の裡、
      雨の降る夜中草庵の中、
   双脚 等閑に伸ぶ。
      両足を伸び伸びのばして寝るのだ。
 

ボクは、この有名な良寛さんのイメージの原型とも云える心境の表白を、素直に受け入れることができない。

おっかないなあと、ちょっとたじろぐ所がある。

執着の全くない人って、怖ろしくはないか。

どうなんだろう。


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by ribondou55 | 2018-12-30 23:02 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)
  天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器をもつてゐない筈である。 
                          芥川龍之介
 

芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中で、ボクにもぴんとくるお言葉のひとつだ。

まったく、そうなのだ。

でも、ボクは別に「天国の民」に憧れるわけではない。

煩悩に踊らされて、うろちょろしてきて、今がある。

それも、もうそう長くは続かない。



なんまいだぶぅ。


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梅雨があがったら、出かけてみようか。




 

by ribondou55 | 2018-05-28 21:47 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

『お弁当』と『おやつ』

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またもやぎっくり腰の予兆あり。

朝方、畑で頑固に根を張った雑草を力一杯、△ホーで掻き取ろうした途端に、例の痛みが腰の辺りに、ぴりりと走った。

ほうほうの体で、帰宅し、それから終日ごろごろして過ごした。

ここで、不用意な動作をしたら、もうアウト。

一週間は、自由に身動きできなくなる。

そこで、先日図書館から借りてきた二冊を読んだ。

大いに愉しく読んで、吾が身の上にまつわる「お弁当」と「おやつ」についても懐かしく思いだされた。

このアンソロジーに収められている随筆の作者たちの多くに、ボクはいい加減な読者であるが、親しみを感じてきた。

その面々のお話にも興味が尽きなかったのだが、ついつい自分の体験に基づいて、是非もう一度食べてみたいと思ったのが、

お袋が中学生の頃によく作ってくれた二段重ねの「海苔弁」。

なつかしいねー。

自分で作ってみたいとも思って、台所の棚から弁当箱を探したが、見当たらない。

配偶者に、俺の弁当箱どうしたと訊いてみようとかと思ったが止めた。

サラリーマンの間、配偶者はほぼ毎日ボクに弁当を持たせてくれた。

だから、定年を迎えたあと、多分、いや、きっと、

弁当箱はこっそり

処分されたに違いないと、ボクは確信したからだ。



ともに、出版社はパルコ。

収録されている著者名は、Amazonで検索すると観ることができる。







by ribondou55 | 2017-06-24 23:57 | 読み捨てご免 | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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