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カテゴリ:目の快楽( 31 )

 ヨコハマトリエンナーレ2011 を覗いてきた。

 artもお金になる時代になってきたのだろうか。

 お金にできないアートなんて、この節意味がないのか。

 エライ人出であった。

 ちょっと、おしゃれなデートスポット。

 映画観るより、小耳ケーションも、深まるし、いうことなし。

 ほとんど、学園祭の雰囲気。

 おじさん一人では、ちょっと、浮いているかもしれないが、どうってこともない。

 会場整理係ボランティア?の声がうるさいし、そうか、前回もそうだった。
 展覧会場内におまわりさんがいるようだった、というと言い過ぎか。
 

 なにごとによらず、お金になるときは、すでに陳腐でなければならない。

 「陳腐」って、愛されるのだから。


 それにしても、カメラ片手の女の子の多さにビックリ。

 さすがに撮影禁止の作品にカメラを向ける人は見かけなかったが。

 そのことの方が、ずっとおもしろい。

 その内、国民総アーチストってことに、きっとなる。

 美術館でデートする時代がやってきたのだ。

 高齢者は高齢者で、巣鴨からアートへ。

 経済効果、すばらしい。ブーム到来か?

 横浜美術館の脇のショッピングモール周辺で、お子様にハロウィンの仮装をさせて何やら楽しそうなイベントをしていた。あのバブリーなタワービルの方と反対の側の方だ。家族連れがベンチでマックのお昼、いいね。

 でも、ふーん、ヨコハマだね、と思いつつうろついてみた。楽しかった。  
 
 本題の展覧会では、面白いと思ったのは、横尾忠則のこんどは真っ暗なY字路のシリーズ、これはそうでしょう。あれは、静物画の中の風景だろうか。

 マッシモ・バルトリーニ・池田 学・金 理有・国芳?・薄久保 香・湯本豪一コレクション ・・楽しかったり、感心したり。その他数点あったが、作品名も作者も忘れた。覚えられるはずもない。

 第一に、人が多すぎて、おちおち観ていられない。

 まして、ダメクサイのは記憶しない。

 それに、ビデオ映像は、ほとんどがつまらない。大仰でばからしいものが多いと、ボクは思っている。

 白装束の女性が、後先にいて、先の人の足跡を箒で消してゆくという、見た目にはとてもきれいな映像があったが、あまりに、隠喩っぽくってかえって馬鹿馬鹿しい。ボクには、こけおどしとしか見えない。

 やはり、素朴に、マン・レイなんて好きだ。

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 夕刻、新宿で、久々に酒。赤ワインがおいしかった。

 タイジョウホウシンの経験談、(ボクはかっかたことなし)で盛り上がった。


 10時過ぎに帰宅、腹が空いて、つい、駅前のなじみのラーメン屋のタンメンを食べてしまった。レバニラ炒めのうまい店である。そこのタンメンは、某横浜系と名乗る有名店のラーメンよりボクはずっと大衆的においしいと思う。アートにもこのタンメンほどの、「大衆性」をお願いしたい。






by ribondou55 | 2011-10-29 22:22 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
 足利まで、走った。

 とてもいい展覧会だった。

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 二十歳前後という年代がどれほどの緊張感に満ちたものか、さらには可能性に満ちたものか。

 血も流れた。

 「累々たる・・・・、夭折者」(こんな云い方はないな)

 高野悦子の「二十歳の原点」を読んだのはいつの頃か、忘れた。

 黒田清輝の「祈祷」(1889)は、幸福な作品である。美しいものは美しく揺るぎがない。この明治の青春は、幸福だ。

 それから、会田誠の「まんが屏風」(1986)までの間、ほぼ百年。その屏風に貼り付けられたまんがのヒーロー・ヒロインも切れ端も、今は黄ばんでしまった。

 野村昭嘉、石田鉄也、大竹伸朗、神田日勝、オノサトトシノブ、桜井浜江、・・・・・関根正二、村山槐多、河野通勢、田中恭吉、以上。

 
 昼飯を3時頃に。食堂もラーメン屋もレストランも、店を閉めている。
 探しあぐねて、発見したのが、富士屋という喫茶店であった。店先では、自慢焼きと小倉アイスを商っている。コーヒー付きカツカレー、焦げる程しっかり揚がったカツと、スープカレーほどではないが、ゆるーい・・・が、おいしかった。何とこれで600円、随分リーズナブル。
 今後、足利での食事はここで。
 それに、自慢焼きのおいしいこと、土産に買って来た冷えた自慢焼きを配偶者は絶賛した。足利みやげもも以後はこれで。ひとつ80円、粒あん・こしあん・白あん・うぐいすあん、いいではないか。
 自慢焼き、とは、今川焼きだったり、太鼓焼きだったり、・・・板橋駅近くの甘味屋では、他の名前で呼ばれていた。

 
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by ribondou55 | 2011-09-30 23:50 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
 新国立美術館の「シュールレアリスム展」を観た。

 これまで画集ではおなじみの作品多数。教科書を読むような展覧会だった。

 こうして、まとめてみると、大変、繊細な味わい。
 理知のようなもの、あるいは政治性が先行するという感じがあったが、そうでもない。

 ブローネルの「欲望の解剖学」、ミロの「シエスタ」、ジョセフ・シマ「正午」、それにキリコ。マン・レイの写真。


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by ribondou55 | 2011-02-18 00:19 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)

  「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」というご大層な展覧会を覗いた。


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  道長の「御堂関白記」を見たかったからである。が、覗いただけに終わった。文字から受けた印象は几帳面な人でまめな人であったのだなという、月並みなものに終わった。

  三蹟のひとりに藤原佐理という人がいることぐらいは知っていた。「大鏡」では「如泥人」とかいわれ酒にだらしない言われてる。その佐理の書にこころ惹かれた。奔放な線の草書は、ボクには読めやしないのだが、かっこいいナ、と思った。これが本日の収穫。

  それにしても、混んでいる。ほとんどの人がリタイアされた方、さらにさらに老婦人、この国はたいしたものだ。展覧会を回るには足腰が第一、お元気である。ボクのは時間の余裕がなかったので、とっとと先へ進まねばならなかったから、自ずと頭越しに「覗く」だけになった。垣間見展覧会である。
  げにみやびなるかな。



 ※ 2019/04/23 追補

   展覧会ポスター追加。
   
   「御堂関白日記」を角川ソフィア文庫で読んだ。繁田信一さんの解説は分かりやすくて素人でも読める。良心的出版物。

   以前、藤原実資の「小右記」に手を出して、程なく撤退した覚えがアルので。


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 なぜ「幽霊たち、・・・・」としたのか、忘れた。








by ribondou55 | 2008-02-20 23:45 | 目の快楽 | Trackback | Comments(1)

  ムンクについて云えば、ボクはムンクの「白」が好きだ。ムンクの白は、死の色である。

   b0018682_23564029.jpg  ところで、この長寿に恵まれた画家は、狂気じみた前半生をおくる。「マドンナ」はその時期の一つの達成である。ボクは、この絵から死を凌駕する官能の輝きを感じる。
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  くぼんだ目、乱れた肩にかかる黒髪、恍惚を耐える唇。その表情の魅力ももちろんだが、反り返る胸から腹部にかけての明るい肉体の輝きは、まことに官能的である。つつましい乳首は、まさしく聖なる淑女のものでるあるようだ。

 でもね、やりすぎだ、な。
 
 実を云うとボクは、こっちの方が好きだ。b0018682_0112653.jpg
  盲目の少女の紅や冬噴水   李凡堂
  















by ribondou55 | 2006-01-15 23:50 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
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 エゴン・シーレは28歳で亡くなった。スペイン風邪で死んだ。
 シーレの描く男と女は、胸を観ただけでは区別がつかない。
 歪み歪みごつごつとひかれた線と強力な自己主張は、やはり夭折者の特権といえそうだ。
 この作品は、シーレが亡くなった前年(1917)から死の年(1918)に描かれたものだ。この家族がシーレの一家だとすれば、家族の遺影といえる。 妊娠6カ月であった妻のエディットが10月28日に他界。妻を看病をしていたシーレも、その3日後の10月31日、同じスペイン風邪で死んだのだそうだ。
 スペイン風邪は、第一次世界大戦終結直前の1918年5月末、マルセイユで風邪が流行し始め、15日間で西部戦線の両軍兵士の間で蔓延したのだそうだ。この風邪がインフルエンザであることは明らかだが、非常に症状が重かったことが特色で、全世界で2000万人から6000万人が死亡したとか。ちなみに当時の世界総人口は12億人にすぎない。シーレもそうして死んだ
 およそ馬鹿げた連想で申し訳ないが、ボクは、26歳で変死した尾崎豊の自意識過剰な歌声がCMの背後に流されて客よせにあしらわれるのを聴くと死者は口をきけないという悲劇を胸くそ悪く思うのだが、エゴン・シーレの死後はいかがなものなのだろう。

 上の妻のエデットの乳房は、母の乳房である。みっしりと張りつめているのは、子どもを宿すからか。手前の子どもにふくませる乳か。シーレとおぼしき男のたくましい腕でもっても、スペイン風邪からは妻を守れなかったが、この乳房には、希望がある。

 それにしても、シーレの描く女たちのおっぱいはおおむね小振りで薄い。が、鉄条網で縛り付けられたような乳房からたちのぼるエロスはひどくデリケートなものであって、捨てておけない。b0018682_194248.jpg







  妹よ義眼へ冬の月光満つ      李凡堂

  













by ribondou55 | 2006-01-14 23:24 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
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                         アメデオ・モディリアーニ「横たわる裸婦」

  モディリアーニが描く裸婦は、いづれもきわめて官能的である。時の官憲が彼の裸婦を目の敵にしたのは、彼らの欲情を刺激したからである。
  この絵でも、おっぱいはとてもよろしい。古典的なフォルムを保ちながら、掌にあまるにちがいない胸の隆起は、挑発的である。細長の面立ちとこちらを向いた切れ長の面差しと、薄幸の娼婦めいた揺らめきがたつ。その頼りなげな表情とおっぱいの量感のアンバランスがいい。ところで、尻の線も悪くない。



女肌待つ辛抱や雑煮餅        李凡堂

   ぬる燗に数の子を噛む砂漠かな

   寝正月人間世界の気味悪さ

   鐘冴ゆる六時のニュース味噌を溶く

   声冴ゆる祖国の白き尻噛めば

   

   
by ribondou55 | 2006-01-08 23:13 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
さて、


サンドロ・ボッティチェリ「ヴィーナス」
─ 15世紀作品

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 この作品と昨日のジョン・カリンの「Twisting Girl」の女性像の間のは、少なからぬ共通点がある。
  まずは髪。輝くような金髪、カールして、微風にそよぐ髪。
  二つめ、軽くひねった首、顔。
  三つめ、何事かを見ているようで、何にもとらわれてない眼差し。
  四つめ、長い腕。
  五つめ、豊かな肉体。
  そして、真円形の乳房。

 違いといえば、ジョン・カリンが描くのは、いかにもアメリカの田舎娘。それは、頬の赤い田舎娘の挑発的な肉体。に対して、「ビーナス」の恥じらい。Girlが、まとう着衣のはち切れんばかりのエロスの形こそ、現代のぼくらの欲望の眼差しの一つの夢の結晶を観る。



   一月四日汗ばむ肌着脱ぐ天使    李凡堂





by ribondou55 | 2006-01-04 18:37 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)
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                         John Currin
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                         1996
                         oil on canvas
                         96.5cm x 76cm

 金髪・巻き毛、そして巨乳。ジョン・カリンの独壇場である。
 振り向くねじれた細い首、膨れあがった二つの乳房、くびれた腰、たっぷりとしていて贅肉のない尻。これぞ女性、なかんずく、その乳首のたった巨乳。楽しくはないか。そこはかとなくただよう懐かしさ。その表情のあどけなさ。これも`おっぱい`の夢のひとつ。


   磨き鏡や雪をみし三日     李凡堂





by ribondou55 | 2006-01-03 23:34 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)


さて、昨日、たんなる思いつきの駄句をここに投じた。

  去年今年君の乳房を探しをり     李凡堂
                               
 まさしく、駄句だが、今日一日、ほとんど飲んだくれていたのだが、今頃酔いが覚めて、気になりだした。

  去年今年君の乳房に遊ぶかな
  去年今年指行く先の乳首かな
  去年今年冥土土産の乳房かな
  おっぱいを吸う俺の背に雪降りぬ
  新年やおっぱいありてめでたかり
  去年今年乳房の辺り祈りをり
  去年今年神在らぬ朝のおっぱい
  去年今年乳房ふたつに照らされて
  
 なんがか、ばかばかしくなる。が、・・・・・・。

 ところで フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の乳房の項はなかな読ませる。

 《乳房(にゅうぼう、ちぶさ)は、多くの哺乳類のメスに存在する、皮膚の一部が盛り上がっているようにみえる器官で、その内部には、乳汁(母乳、乳)を分泌する外分泌腺の乳腺(にゅうせん)がある。俗におっぱいとも呼ばれる。

乳房の表面には、乳汁が外部に分泌される開口部を含む乳頭(にゅうとう)が存在する。哺乳類では、産まれてから一定期間の間の子供は乳汁を主たる栄養源として与えられ、生育する。哺乳類の名前は、ここから来ている。オスの乳房、乳腺は通常、痕跡的である。

ヒトの乳房は、通常は胸部前面に左右1対存在する。乳房の存在意義は、出産後母乳を分泌し、乳児を育てることであるが、現代人にとっては、母乳を粉ミルクにより置き換えることが可能なことから、その重要性は他の哺乳類ほどではなくなっている。一方、女性特有の器官である乳房の大小、美醜は、女性の身体的魅力の一要因としてみなされており、社会的な関心、注目度は高い(#関連を参照)。 また、男性にとっては興奮剤でもあれば癒される場所でもある。



  いうまでもなく、ボクの関心は、この傍線部分に関係するもので、ほ乳類のほ乳類たる所以などまったく関心がない。

 じつは、(#関連を参照)の項が一層おもしろくて、(巨乳)(貧乳)の項へリンクしている。これがなかなか充実しており、ここでは巨乳有名人なるものの紹介があり、それはなかなかに詳細である。で、この(巨乳)の項には、次のような懇切丁寧な注釈まで付加されている。

 ・ 一般的に、乳房の大小は、極めて主観的な嗜好に過ぎず、ことさらに乳房だけを取り上げることに関しては批判も多い。
 ・女性の美徳として、乳房について述べる事はセクシャルハラスメント以前に人格の否定にも繋がる危険をはらみ、男性は、女性と親しくなるまでは乳房の話はしないほうが良い。
 ・巨乳(それ以上)とされる女性からは、「でかすぎて逆に男性がらちらちら見てくる。しかもブラジャーもでかくないといけないし、ていねいにあつかわないと、胸が垂れるので、貧乳よりもけっこう気をつかう。」という意見も存在しており、意中の男性にアピール出来るだけならまだしも、関係の無い男性までもが興味本位に近づいてくることは、気を使いすぎるだけのようだ。

 いや、実に親切ではないか。

 新年にあたり、ボクにとっておっぱいとは?というきわめて深遠にして根元的な問題に意識を向けてみよう。と、いうことにしよう。(この項続く)


   鬼不在ブランコ広場のむつみ月      李凡堂





by ribondou55 | 2006-01-02 11:20 | 目の快楽 | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂