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花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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カテゴリ:ご近所巡礼記( 33 )

 訪ねた先は、以前一度立ち寄ったことのあるお寺であった。

 このところの我ら夫婦、そろって呆けの進行がとまらない。

 物忘れ、うっかりミス・・、その程度が笑い事で済ませられる内はよいのだが・・。

 やあ、ここきたことあるね。

 見飽きた顔を互いに改めて見直したのでありました。


 
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 このお寺は、曹洞宗、東国花の寺百ヶ寺の内の札所で、この観音様が御本尊。

 菊女観音とお呼びする。
 
花のお寺の由縁は、このしだれ桜でありましょう。

 

 この観音様、菊女とあるからには、元はお人、どんないわれがあって、観音様におなりかというと、こう寺のHPにある。


その昔、この地方を治めていた城主は小幡信貞(おばたのぶさだ)候と言います。

そして、腰元に美しく聡明な待女、お菊さまがおりました。

信貞候はこのお菊さまを寵愛し、片時も自分のそばから離そうとしませんでした。

そのため、奥方や他の腰元たちの嫉妬心は日に日に増し、信貞候留守中に奥方のお膳に針を落とし、それをお菊さまのせいにしてしまいました。

そして、お菊さまを菊が池で蛇責めの刑に処してしまいました。

お菊さま19歳、天正14年(1586)9月19日のことです。

その後、追善の供養が度々行われました。さらに明和5年(1768)万仭道坦禅師(ばんじんどうたんぜんし)や、大勢の人たちの努力により、菊が池に大権現としてお祀りされました。

それ以来成仏の功徳をもって、お菊さまは苦難にあえぐ人たちの支えとなることを誓い、その美しい姿は観音様として多くの人々に慕われています。

菊女伝説は、「番町皿屋敷」の1つの源流伝説でもあります。


 おお、お菊様、憐れなようで怖ろしいようで、ここは南無南無南無。

 とにかく観音様は千変万化、いろいろなお姿で我らをお救い下さる。

 ありがたや。

 どうぞ、この呆け夫婦の余生が安楽で在りますよう、合掌。


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さて、観音様を拝んでいるのか、桜に願を聞き届けて頂きたいのかわかりますせんが。

参ったのは四月六日でありました。









 

 
 

by ribondou55 | 2019-04-08 15:51 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
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 桜が咲いたこのころには、会いに行きたくなる。

 かわいらしいお地蔵様。

 「さくら地蔵」とは。

 南無南無と掌をあわせれば、それで心安まるというのが、お地蔵さんのありがたさである。

 身近においでくださるありがたさ。

 桜に誘われてお会いできるとは。


 今日図書館帰りに日本さくらの名所100選のひとつ熊谷桜堤へと遠回りした。

 ソメイヨシノの並木はまだ5,6分の開花状況か。

 それでも、もう桜の下では老いも若きも男も女もいい気分で浮かれていた。

 平成の御代の最後のめでたさである。



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 昨夜、旅から帰った。

 そのことは、明日に。






by ribondou55 | 2019-03-31 22:57 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 隣町の図書館へ行くのに、普段は通ることがない道を行った。

 瑠璃光寺とあった、立派な天台宗のお寺である。

 平安初期の創建、1200年の歴史を持つ由緒あるお寺であるそうだ。


 境内に薬師堂があり、寺の通称となっている寅薬師さんとして人々に親しまれており、眼病に御利益があるのだそうだ。

 その薬師堂へは仁王門から参ることになる。

 その仁王さんが、失礼ながら、とてもいい感じだ、といいたい。

 先ずは、お口を開いて「阿」の仁王さん。

 
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 こちらが口を閉じられた「吽」の仁王さん。

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 仁王門自体は、享保年間の建立であると云うから、この二体の金剛力士像も江戸時代の作品であるかも知れない。


 目が生き生きとしておいでだ。

 眼病の治癒を薬師様にお願いにくる人々をくりくりした目で見下ろす仁王さんはかっこよいではないか。

 薬師様に手をあわすのが本当だが、ボクはこのお二人の仁王さんのほうがありがたい気がしてきた。

 ともあれ、老眼が苦になる私めのために、合掌。

 
 そして、南無薬師如来。



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仁王門の全景と天井画をつけておく。








by ribondou55 | 2019-02-02 22:52 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)


紅葉の便りに惹かれて、古峰神社に向かった。

好天にめぐまれ、紅葉を堪能できた。

古峯神社、HPをみると

下野国古峯ヶ原鎮座古峯神社

開運・火防 天狗の社

とある。

祭神は日本武尊。

そして、天狗は大和猛の使いとなって、崇敬者の災難にあっては救援にただちに飛来してくださるのだという。


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ということだが、今回は紅葉見物という下心があっての参拝である。

さくっとお参りするとすぐに神社の奥の古峯園に向かった。

四季折々の美しさをみせてくれる庭園であると、噂には聞いていたが、期待以上であった。

今は、言うまでも無く紅葉である。

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鹿沼の奥、日光の手前の山中にこのような庭園があるが、まず驚きであった。

日頃の屈託をはらしていただけたような爽快な気分になることができた。

これも古峯神社のありがたい御神徳の一端であるに違いない。



古峯神社の所在地
栃木県鹿沼市草久3027







by ribondou55 | 2018-10-30 23:31 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)

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目的は、喜多方ラーメンを食べることであった。

時間調整にということで、喜多方の新宮熊野神社の長床に立ち寄った。

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 この建築物は立派なものであった。

 会津という土地には驚かされるばかりだ。

 昨年、一昨年と会津の徳一ゆかりの寺を巡った折にも感じたことだ。

 
 さて、ここには宝物館が付属する。

 大体、古社には寺院が付属するものだ。

平安時代後期にこの地に熊野神社が勧進され、最盛期には300余りの末社や寺院が立ち並んでいたと、ウィキペデアにある。
 
この地でも、明治近代の野蛮の一つである「廃仏毀釈」によって、多くの仏教関連の信仰対象が破壊、破棄されたのだろう。

辛くもというか、幸いというか、村人によって守られ伝えられたものが、展示されていた。

国の重文である「銅鉢」、県の重文「木造文殊菩薩騎獅像」などが広く紹介されている。

それらについては、置いておき、ボクには冒頭二作、不思議な木造が印象に残った。


鎌倉時代の「木造禽獣像」。

熊野神社の使い「月の精」である「兎」であるかもしれないと。

ころっとした形がとてもいい。

次のは、ボクには何だかわからない、もしかすると、竜の頭?

ともあれ、ボクには魅力的。

素朴な信仰心の手触りようなものが、伝わってくる。

どこのどなたが作られたものか。

それをうち捨てずにおいた皆さんもたいしたものだ。


こんなのもあった、ガラスが反射してちょっと見にくい。

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愉快。











by ribondou55 | 2018-09-25 09:56 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 都心へ通う必要から、お得な「青春十八きっぷ」を購入したが、二日分しか使用しなかった。

 ので、残りきっぷを消化する第一日目、吾妻線に乗って、万座鹿沢口下車した。

 日本のポンペイなどとも云われる

天明の浅間噴火により埋没したという鎌原(群馬県嬬恋村)を訪ねた。

 鎌原は、天明3年(1783)7月8日の浅間の大噴火によって引き起こされた土石流によって、

崩壊埋没した。

 その際、かろうじて鎌原観音堂の階段をかけのぼり、生き延びることができた人が93名、

逃げ遅れて亡くなった人は477名。

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 観音堂への参道、手前の朱塗りの橋の下へは、発掘された埋没階段が続いている、

その埋没部分に老若二人の女性の遺骨が這い上がるような姿勢で発掘され、

その発掘当時の画像から、見るものは衝撃をうける。

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 さて、この災厄と後の復興について、「浅間山噴火大和讃」はこのように伝えている。


     帰命頂礼鎌原の
     月の七日の念仏を
     由来を委しく尋ぬれば
     天明三年卯の年の
     四月初日となりければ
     日本に名高き浅間山
     俄かに鳴動初まりて
     七月二日は鳴り強く
     夫れより日増しに鳴りひびき
     砂石をとばす恐ろしさ
     ついに八日の巳の刻に
     天地も崩るるばかりにて
     噴火と共に押し出し
     吾妻川辺銚子まで
     三十二ヶ村押通し
     家数は五百三十余
     人間一千三百余
     村村あまたある中で
     一のあわれは鎌原よ
     人畜田畑家屋まで
     皆泥海の下となり
     牛馬の数を数うれば
     一百六十五頭なり
     人間数を数うれば
     老若男女諸共に
     四百七十七人が
     十万億土へ誘われて
     夫に別れ子に別れ
     あやめもわからぬ死出の旅
     残りの人数九十三
     悲しみさけぶあわれさよ
     観音堂にと集まりて
     七日七夜のその間
     呑まず食わずに泣きあかす
     南無や大悲の観世音
     助け給えと一心に
     念じ上げたる甲斐ありて
     結ぶ縁もつき果てず
     隣村有志の情けにて
     妻なき人の妻となり
     主なき人の主となり
     細き煙を営みて
     泣く泣く月日は送れども
     夜毎夜毎の泣き声は
     魂魄子の土に止まりて
     子供は親を慕いしか
     親は子故に迷いしか
     悲鳴の声の恐ろしさ
     毎夜毎夜のことなれば
     花のお江戸の御本山
     東叡山に哀訴して
     聖の来迎願いける
     数多の僧侶を従えて
     程なく聖も着き給い
     施が鬼の段を設ければ
     残りの人々集まりて
     皆諸共に合掌し
     六字の名号唱うれば
     聖は数珠を爪ぐりて
     御経読誦を成し給う
     念仏施我鬼の供養にて
     魂魄無明の闇も晴れ
     弥陀の浄土へ導かれ
     蓮のうてなに招かれて
     心のはちすも開かれて
     泣き声止みしも不思議なり
     哀れ忘れぬその為に
     今ぞ七日の念仏は
     末世に伝わる供養なり
     慎み深く唱うべし
     南無阿弥陀仏
     明治初年
     南無阿弥陀仏
      (萩原鎌原司郎補正 滝沢対吉原作 1982 )・・・赤は泡六堂に責


 平日であったせいか、観音堂を訪れる人はまばらで、閑散としていた。

 今は、一つの観光資源であるのが、

どのような形であれ、天明の浅間大噴火では歴史上希有な大被害を祖先らは被った、その史跡である。

 とはいえ、本当に閑散としていた。

 側の嬬恋村の資料館は、まことに凡庸な展示で、アレで何を後世に伝えようとしてるのか?

 観光資源でよい、魅力ある観光資源にして集客し、長く語り伝えよ、そう思った。

 つまり、世間に役立つ金儲けをしてくれればいいのだ。

このような記憶でさえ、観光地化する以外に生き続けさせることがはできない。

 忘れやすい、このことはつい先だっての福島の原発事故ですら、言わずもがな。


 南無観世音菩薩。

 南無観世音菩薩。















by ribondou55 | 2017-09-06 15:24 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 さて、もう今日はお盆の最中、我が家も昨夕、ご先祖様をお迎えした。

 すでに会津に出かけたのは.2週間以上前のことになってしまった。

 であるから、ボクの脳みそでは、もう大方の記憶が消えている。

 風前の灯火のような思い出を書き留めておこう。


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 さて、バスツワーは、お蕎麦の昼飯を終えて、サンダル履きのガイドさんに引率されて恵隆寺に向かった。※「サンダル履き」、これ告げ口、嫌みではありません。このゆるーい感じが、会津らしくてよろしいと、いうこと。

 寺の歴史によれば、本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。
みなさん、ご覧になれば必ず驚きますよ!

 「会津六詣出」http://www.aizu-reichi.gr.jp/tatiki/ というとても親切この上ない柳津町地域振興課によるHPから拝借した。

 実際、このHPの表現は、大げさなものではない。

 びっくりである。

 見学の折、ご法事と重なったために、失礼ながらご本尊のお参りは、仏さんの足下から見上げる体になった。

 一木造り、巨大である。
 
 ちなみに鎌倉・長谷寺の十一面観音の身の丈は9.18メートルである。

 そのご本尊を足下から見上げるのだが、圧巻は三十体の脇侍が居並ぶ威容である。

 これも、接近して見上げるので、実は全貌を見渡すことができない。

 ああもどかしい。

 ということで、次は如法寺へ。

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 ここで、こんな愉しげに説教なさるお坊さんにはじめてお会いした。

 奈良時代、天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫された際、とある貧しい農家に宿をとられました。行基菩薩は、子に恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲嘆にくれる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになられました。
観音様の霊験は著しく、自ら鳴子の網をお引きになり、鳥や獣を追わせられたところ、その一家は豊作に恵まれ、子宝を授かり、皆幸福な人生を全うしたと伝えられています。
やがて西方極楽浄土に安楽住生が叶ったことが広まり、人々は「鳥追観音」又は「ころり観音」と呼び、多くの老若男女の信仰を集めるようになりました。
時代は移り、大同二年(807年)、徳一大師は、坂上田村麻呂公の帰依を受けて、金剛山如法寺を創建し、御本尊に行基御作と伝えられる聖観音像を奉安、胎内仏に「鳥追観音」を入仏秘されました。
御堂は、慶長十八年に再建されたものですが、その構造は東西向拝口というもので、東口から入り、参拝したら戻らずに西口から出るようになっており、全国でも珍しい構造の観音堂です。これは観音様の導きで人生を全うし、やがて西方浄土へ安楽往生が叶うという鳥追観音の御誓願を示しています。観音様に祈念して、「身代わりなで仏」をなで、肌守りを念持すれば、心願成就すると信仰されています。開創以来千二百年、「鳥追観音」は会津西方浄土の霊場、会津三十三観音番外二世安楽結願所、会津ころり三観音霊場のひとつとして、その広大無辺な慈悲を今に伝えています。([会津六詣出」より拝借。)


 お説教で、もっともリスペクト、強調されたのは、ボクのお目当ての徳一法師についてである。

 その内容は、如法寺公式HPhttp://www.torioi.com/rekishi.htmlを見よ!



 実は当日のツワー参加者は、たったの四名であった。

 にもかかわらず若いお坊さんは声をからしてお話下さり、締めにはご祈祷までシテくださった。

 本当をいうと、どんなありがたいお説教であったか内容は忘れた、ただケラケラと笑わせて頂いた。

 聴いていて、心が柔らかくなった、愉快になった、たとえコロリと逝かなくても、ありがたいではないか。

 ありがたいことだ。

 ボクはこれまでいろいろな宗派、お寺で法話を聞かせて頂いてきたのだが、これほどに愉快なことはなかった。

 ありがたし。


 もう一つ、妙法寺では、御堂に左甚五郎作と伝えられている「隠れ三猿」がある。


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 この説明が、とってもいい。

 あのお坊さんのお母様が、これもお声を張り上げてユーモアたっぷりになさる。

 それも、会津弁で語られる。

 すばらしい。


 





by ribondou55 | 2017-08-14 17:33 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
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  「会津ころり三観音巡り」、バスガイドさんから初めて説明を受けたとき、思わず笑った。
  
  あいづ ころり さんかんのん とても語呂がいい。

  本当に、ころりといけそうである。

  立木観音(恵隆寺)、鳥追観音(如法寺)、中田観世音(弘安寺)の三霊場を指すのだそうだ。

  原始経典では、涅槃とは貧欲・瞋恚・愚痴の滅尽であると聴いている。

  観音経では、その貧欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)を淫欲・瞋恚・愚痴というのだが、それを三毒とし、観音経を信仰し正しく生きていけば、己の中の三毒を軽減できるというようなことが、説かれていたように記憶する。

  ボクは、この貧欲(トンヨク)を、観音経では「淫欲」と限定的にしているところが、好きだ。

  つまりは、会津三観音はその三毒から離脱するお導きをして頂けるということなのだろう。

  まことに、ありがたい。

  ボクは、煩悩まみれの糞ったれであることを、深く自覚している。

  そうであるから、涅槃なんてとんでもない希望を持つのは論外だが、できることなら、苦痛なくコロリと逝きたいというのは、ボクぐらいの年になると、本当に切実だ。

  

  バスツワーは、その内の立木観音から鳥追観音を巡るのだった。

  


  つづく。

by ribondou55 | 2017-08-10 10:34 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 もう忘れそうだから、書き留めておく。

 この夏のはじめ、会津に出かけた。

 空海をして、「徳一菩薩」とまでいわさしめた、お坊さんとはどんなお方か?

 どうやら伝記的な資料がほとんど残されておいでではないというので、せめて、そのゆかりの旧跡を少しばかりでも訪ねてみたいと、思ったのだ。

 
 旅の一日目は、エンヤラエンヤラ汗をかきながら、慧日寺に参った。

 二日目、無精を決め込んで、定期観光バスを予約しておいたのだ。

 ボクの旅の原則の一つは、公共交通機関を利用して、あとは徒歩、または、自転車としていたが、寄る年波には勝てない、いたしかたない選択であった。

 ※「日本遺産 仏都会津 ~巡礼を通して観た往時の会津文化を訪ねて~」という、とても格調高い、バスガイド付の規格である。

 結果的に云えば、ボクは大いに愉しかった、会津バスは、なかなかのものであった。

 昼食の蕎麦も美味かった、これはツワーに込みである。

 
 巡礼ツワー先ず一番目、「勝常寺」。

 ボクはこの薬師如来様と両脇の日光・月光菩薩は、「みちのくの仏像」展(上野・トーハク)で観ているはずであるのだが、物忘れのみ超人的なため、印象すら忘れてしまっていた。 ※「勝常寺」ついては、ページ下のメモに(福島県湯川村の公式サイト)からお借りしたものが、貼り付けてある。

 だから、再会にして初対面であった。(奇妙な画像で失礼)



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 この彫刻分野では東北で初めての仏像として国宝指定された薬師如来座像に改めてみると、実に堂々とした体躯で、意思力に満ちた表情をされている。

 このパワーフルな感じが、厳しい自然に向き合って生きて行く会津の人々の心を打ったに違いないことがわかる。

 日本では北方に多い春楡の一木造りであるという。

 光背も立派なものだ。

 都びた表現もあり、徳一法師が関わったという説もある。

 もし、都から仏師を招いたのなら、そのスポンサーはいかなる人々だったのか。


 さて、その徳一法師の座像がこの薬師三尊の奧で睨みをきかせておいでであった。

 実は、この徳一法師のお姿を観たいと思ったのが、会津に出かけてみようと思った動機のひとつだった。

 勝常寺では撮影できなかったので、これは、慧日寺の展示資料を撮ったものだが、なんとも、迫力のあるお姿ではないか。

 
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 デフォルメされることで、一層リアルさを増すことがあるのは、だれでも知っている。

 宝物殿の薄か暗がりのなかで、このぎょろりと一瞥されたような気がした。

 いくつになっても肝の据わらない己を、恥じた。(つづく)





 
 


More 勝常寺のこと、定期観光バスのこと。
by ribondou55 | 2017-08-08 10:21 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 この夏の旅の始まりは、会津で徳一上人の旧跡を訪ねる二泊三日の短いものであった。

 例によって、青春18きっぷののんびり旅である。

 とにかく、7月下旬のお昼近く、ボクは磐越西線磐梯町駅で下車し、空きっ腹をかかえて、慧日寺へ向かった。

 真夏日。

 駅の道案内をじっくりと見て、・・・・見過ぎて、道を誤った。

 駅前から道なりに行って、ひとつめのT字路、ここを右にとあった。

 そこに至ると小学生の一団が通りかかったので、一番年上らしいお嬢ちゃんに道を爺さんは訪ねた。

 ボクが「慧日寺へは右?」と訪ねた時、女の子は明らかに迷い、迷い、やっとのことで、「行けると思う」と答えてくれた。

 ボクは、「地元とはいへ、古寺なんかに興味ないだろうし、迷うだろなー」と、感じたりした。

ナント、通りいっぺんな、子どもは無知なものという、決めつけ、これが、ボクの浅はかさ。

彼女の迷いの意味に気づかなかった。


 そこで右折して行く、歩いて行くと、行けども、行けども、先ほど道案内で記憶した目印となるはずの施設がまったく現われてこない。

 炎天下である、空きっ腹。

 咽が渇く、このままでは熱中症、命さえ危ういと、爺さんは簡単に愚痴にはしる。
 
・・・・・・・・

 とうとう、大きな川とそれを渡る橋まで見えてきた。

駅の案内図に、大きな川を渡るなんてなかった。


 どんな耄碌でも、立ち止まる。

 ボクもそうした。

 見渡すと、遠くに目印らしきもの発見。

 あの△尖り屋根は町役場建築にはありがちではないかと。

確か、案内図の道筋に役場があった。

 

 ボクは、その折、あのお嬢ちゃんを、「ちぇ、地元のガキのくせに、間違った道を教えやがって」と、下卑た思いを持った。

 実に、実に、仏の教えに背く、ボクはくだらない年寄りである。

その尖り屋根を目指して行くと、慧日寺への一本道に出ることができた。


 慧日寺から帰り道でようやく気づいたことは、本来ボクが曲るべきT字路は、ボクの曲った箇所ではなく、更に100メートほど先にあったということ。

 お嬢ちゃんは、「なんでこの爺さん、迷うの?もっと先へ行ってから右の方が、いいのに」と、思ったのにちがいない。

 その上で、お嬢ちゃんは、実は、「訊かれた場所から、慧日寺に行くには」と、この爺さんにためによくよく考えて答えてくれたのだ。

 事実、ボクは遠回りをしつつも、ちゃんと慧日寺に着けたのだから。

 彼女は明らかに、迷っていた。

 「ここから、慧日寺にゆくのに、右に行けいいの?」とボクは訊いた。

 彼女は、迷いつつも「右に行けば行ける」と答えた。

 何度でもいいたい、ボクは、右に行き、事実結果的に到着できた。

 彼女は間違っていない、親切な女の子であった。

 では、なぜ、彼女はまよったか?

 「この爺さんは、もう少し進んでから、右に曲ればいいのに、なぜ遠回りになるここでの右折を訊くのか?ばっかじゃない。でも、行けないこともないわよ。私なら行かないけれど・・・・」と、思いつつも、「年寄りの云うことは、不可解なことが多い、反対するとすぐに逆上でもしかねない。怖い。でも、教えてやろうか?、いやいや、この爺さんイヤに自信ありげに尋ねるし、年寄りのプライドを傷つけてはいけない、・・・」とかとか、と云う感じで、大いに迷いに迷いつつ、本当は、「ここを右に曲ってもいけます。(お勧めしませんが)」と云いたかったのだと、宿に着いてから思い当った。

 馬鹿は、この爺さんでした。

 御免なさい、慧日寺の管理人さんに、地元の小学生に違う道を教えられたと、ボクはつげ口しました。

 もしも、もしも、お嬢ちゃんが、「白髪頭のあわれな爺さんに気の毒したな、もっと親切に答えられなかったろうか」なんて、ちらっとで後悔したら、本当にご免なさいといいたい。


 そのようにして、恵日寺跡へと到着した。


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by ribondou55 | 2017-07-29 11:39 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)