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カテゴリ:ご近所巡礼記( 34 )



久々のポタリング。

夏の間、暑さにくじけてボクは、ぐうたらしていた。

ようやく、秋めいてきて、脇腹がタップタップしてたような気がして、ペタルを漕ぐ意欲が少し兆した。

この機を逃すまいと、老体にむち打つ感じで、行田方向へ向かった。

なぜ、行田か?

この方向が、昨日は、自転車にとって追い風になるからだ。


さて、さきたまの博物館までと、目論んだが、

ラグビーワールドカップの会場になっている熊谷ラクビー場の様子を覗いて置こうと、寄り道。

ここでは、全4試合のみだから、本日は試合はない。

それでも、まことに賑々しく開催中のこと推察され、ボクもなんとなくうれしくなった。


そこから、刈り取りの終えた田んぼを両脇に眺めながら、行田市街に向かった。

昼飯に寄ろうと思っていたラーメン屋を目指すのだが、道に迷った。

仕方なく、行田のメインストリートを羽生方向へと当てもなく走ってゆくと、我空薬師の入り口の標識があった。

ポタリングの面白さは、犬の散歩のように、道草すること。

といっても、マーキングはしない。

そこで、「我空薬師」に出会った。

「ガクウヤクシ」、おお、イイ感ジ、御利益ありそうと、お参りに行く。


比較的、小ぶりのお堂が建つ。

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さて、由緒書きを一読し、驚嘆したり、ニヤリとしたり。

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これは、ガクウヤクシではなく、「ガッカラヤクシ」様であったとは。

弘法大師はあちらこちらに通りかかられたようで、このガッカラ薬師様も弘法大師ゆかりの仏様であった。

「行田市研究2012」http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-87b2.html にこんな記事が。

第九話 ガッカラ薬師と霊泉長野我空薬師

 長野公民館がございます。あの公民館の前を東へ、工業団地の方面へ向かっていきますと、右手に保育園がございます。その保育園の手前を右へ曲がって、四,五十メートルほどの所に「ガッ薬師」といわれている小さなお堂がございます。昭和の初めまでは、この辺一帯は森われていたと云います。さいけれどもこのガッ薬師のおりは、んなものでした。のおに、元禄十四年から薬師像られていたといますが、そのまでは、姿のない薬師堂であったといいます。昔、弘法大師がこの地をまわられた時、人々を救うために薬師を祀るように言われ、この地を選んでよくめ、仏の助けを祈念して一本の木を植えられました。「ここに薬師さまがお祀りしてあります。信仰のい人が頼めば、必ずご利益を与えてくれるであろう。」と、こう言って立ち去りました。いつの頃からか、その木は光り輝き、夜道でも誤ることなく薬師堂にたどり着くことができたといいます。その、木の根元から泉が湧き、この泉で入浴すると万病に効いたといいます。そして「薬師せい」と呼ばれ評判なりました。その頃からか、夜になるとどこからともなく森の中で「ガッラ、ガッラ・・・」とく音が聞こえてくるようになりました。その音が薬師さまからの音だというので「ガッラ薬師といわれるようになったようです。「薬師の井」は近隣に評判となり、埼玉、、広田など遠くからも、この水をもらいに来る人が絶えませんでした。それがいつしかはしこい人間が目をつけるところとなって浴場を造ってしまいました。これがまた大繁盛し、次から次へと新しい浴場が造られ、この辺一帯が霊験あらたかな「霊泉の町」となってしまいました。何かまるで、現代のスーパー銭湯ブームを思わせるようですねえ。ついには遊楽街となり、いかがわしい湯屋までできるようになってしまいました。それが、今から二百八十年前も昔の享保の頃のことでございます。その浴場の権利のことで争いにまでなってしまったので、さすがに目に余ったのでしょうか。つい忍城主阿部豊後正喬侯はとうとうこの辺一帯浴場を禁止してしまわれました。しかし「薬水」の効き目は衰えず、各地から信仰として水をいただきに来る人は非常に多かったといいます。正徳六年、千七百十六年といいますから、公衆浴場騒動の少し前のこと、この地に住んでいたお坊さんが亡くなったといいますので、このガッラの森に葬りました。ところがそのからったたちがだれかれとなく高熱にうなされるようになりました。みなが「ここに死体を埋めて、薬師如来をけがたてまつったばつが・・・」と、高熱に狂いながら言いますので、坊さんの死体を違う場所に移しました。今度はたちどころに熱も引き、皆、元にもどったということです。この話が評判になり、ガッラ薬師の信仰はますます広がっていきました、とさ。

 あくまで、伝説としての紹介であるが、薬師堂前の格調高い由緒書きともほぼ重なる内容である。

 面白い。

 伝説にしても、謎多いお話で、全国にはこの類話のありやなしや?


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 一番面白いのは、この伝説を採録されたの方のおっしゃるとおり、聖水を汲んで沸かしてSPにした、この件である。
 
 いかがわし湯屋まで出来たという、いいねえ。

 由緒書きには「遊婦」とやや品良くあるが、つまりは「湯女」まで侍らせて、お湯三昧。

そうなら、霊験あらかた間違いなく、大抵の病も快癒したかも知れない。

 阿部正喬というお殿様は、1672年から1750年までご存命、幕府の老中もお勤めになった。

 元禄12年には寺社奉行にも就いている。

 確かに、聖水SPには、眉をしかめたかもしれない。

まして、享保の吉宗政権下では、こりゃ駄目でしょう。


 ともあれ、本来「我空」とは、立派な仏の教えである、

 大乗仏教の根本思想である二空の一つ。人空生空,人無我,衆生無我ともいう。一切の生類に心身があるとしても,色受想行識の五蘊 (ごうん) の集ったもので,実体としての自我というものはないとする見解。(ブリタニカ交際大百科事典)

 いいですねえ。


そもそも、湯屋の始まりは、寺院が衆生斎度のための浴場だという。

仏との因縁浅からず。

聖と俗も表裏、両面あって、足し引きするとプラマイゼロで「我は空っぽ」となるやならずや。

 ありがたや。

 「我空薬師」

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ボクはこのところ目がしょぼしょぼしたりするので、お賽銭をちょっとはずんで、手をあわさせていただいた。

 南無我空薬師如来。


ラーメンは、初めての店で食べた、可も無く不可も無し。











 





 



by ribondou55 | 2019-10-06 10:33 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 訪ねた先は、以前一度立ち寄ったことのあるお寺であった。

 このところの我ら夫婦、そろって呆けの進行がとまらない。

 物忘れ、うっかりミス・・、その程度が笑い事で済ませられる内はよいのだが・・。

 やあ、ここきたことあるね。

 見飽きた顔を互いに改めて見直したのでありました。


 
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 このお寺は、曹洞宗、東国花の寺百ヶ寺の内の札所で、この観音様が御本尊。

 菊女観音とお呼びする。
 
花のお寺の由縁は、このしだれ桜でありましょう。

 

 この観音様、菊女とあるからには、元はお人、どんないわれがあって、観音様におなりかというと、こう寺のHPにある。


その昔、この地方を治めていた城主は小幡信貞(おばたのぶさだ)候と言います。

そして、腰元に美しく聡明な待女、お菊さまがおりました。

信貞候はこのお菊さまを寵愛し、片時も自分のそばから離そうとしませんでした。

そのため、奥方や他の腰元たちの嫉妬心は日に日に増し、信貞候留守中に奥方のお膳に針を落とし、それをお菊さまのせいにしてしまいました。

そして、お菊さまを菊が池で蛇責めの刑に処してしまいました。

お菊さま19歳、天正14年(1586)9月19日のことです。

その後、追善の供養が度々行われました。さらに明和5年(1768)万仭道坦禅師(ばんじんどうたんぜんし)や、大勢の人たちの努力により、菊が池に大権現としてお祀りされました。

それ以来成仏の功徳をもって、お菊さまは苦難にあえぐ人たちの支えとなることを誓い、その美しい姿は観音様として多くの人々に慕われています。

菊女伝説は、「番町皿屋敷」の1つの源流伝説でもあります。


 おお、お菊様、憐れなようで怖ろしいようで、ここは南無南無南無。

 とにかく観音様は千変万化、いろいろなお姿で我らをお救い下さる。

 ありがたや。

 どうぞ、この呆け夫婦の余生が安楽で在りますよう、合掌。


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さて、観音様を拝んでいるのか、桜に願を聞き届けて頂きたいのかわかりますせんが。

参ったのは四月六日でありました。









 

 
 

by ribondou55 | 2019-04-08 15:51 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
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 桜が咲いたこのころには、会いに行きたくなる。

 かわいらしいお地蔵様。

 「さくら地蔵」とは。

 南無南無と掌をあわせれば、それで心安まるというのが、お地蔵さんのありがたさである。

 身近においでくださるありがたさ。

 桜に誘われてお会いできるとは。


 今日図書館帰りに日本さくらの名所100選のひとつ熊谷桜堤へと遠回りした。

 ソメイヨシノの並木はまだ5,6分の開花状況か。

 それでも、もう桜の下では老いも若きも男も女もいい気分で浮かれていた。

 平成の御代の最後のめでたさである。



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 昨夜、旅から帰った。

 そのことは、明日に。






by ribondou55 | 2019-03-31 22:57 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 隣町の図書館へ行くのに、普段は通ることがない道を行った。

 瑠璃光寺とあった、立派な天台宗のお寺である。

 平安初期の創建、1200年の歴史を持つ由緒あるお寺であるそうだ。


 境内に薬師堂があり、寺の通称となっている寅薬師さんとして人々に親しまれており、眼病に御利益があるのだそうだ。

 その薬師堂へは仁王門から参ることになる。

 その仁王さんが、失礼ながら、とてもいい感じだ、といいたい。

 先ずは、お口を開いて「阿」の仁王さん。

 
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 こちらが口を閉じられた「吽」の仁王さん。

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 仁王門自体は、享保年間の建立であると云うから、この二体の金剛力士像も江戸時代の作品であるかも知れない。


 目が生き生きとしておいでだ。

 眼病の治癒を薬師様にお願いにくる人々をくりくりした目で見下ろす仁王さんはかっこよいではないか。

 薬師様に手をあわすのが本当だが、ボクはこのお二人の仁王さんのほうがありがたい気がしてきた。

 ともあれ、老眼が苦になる私めのために、合掌。

 
 そして、南無薬師如来。



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仁王門の全景と天井画をつけておく。








by ribondou55 | 2019-02-02 22:52 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)


紅葉の便りに惹かれて、古峰神社に向かった。

好天にめぐまれ、紅葉を堪能できた。

古峯神社、HPをみると

下野国古峯ヶ原鎮座古峯神社

開運・火防 天狗の社

とある。

祭神は日本武尊。

そして、天狗は大和猛の使いとなって、崇敬者の災難にあっては救援にただちに飛来してくださるのだという。


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ということだが、今回は紅葉見物という下心があっての参拝である。

さくっとお参りするとすぐに神社の奥の古峯園に向かった。

四季折々の美しさをみせてくれる庭園であると、噂には聞いていたが、期待以上であった。

今は、言うまでも無く紅葉である。

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鹿沼の奥、日光の手前の山中にこのような庭園があるが、まず驚きであった。

日頃の屈託をはらしていただけたような爽快な気分になることができた。

これも古峯神社のありがたい御神徳の一端であるに違いない。



古峯神社の所在地
栃木県鹿沼市草久3027







by ribondou55 | 2018-10-30 23:31 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)

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目的は、喜多方ラーメンを食べることであった。

時間調整にということで、喜多方の新宮熊野神社の長床に立ち寄った。

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 この建築物は立派なものであった。

 会津という土地には驚かされるばかりだ。

 昨年、一昨年と会津の徳一ゆかりの寺を巡った折にも感じたことだ。

 
 さて、ここには宝物館が付属する。

 大体、古社には寺院が付属するものだ。

平安時代後期にこの地に熊野神社が勧進され、最盛期には300余りの末社や寺院が立ち並んでいたと、ウィキペデアにある。
 
この地でも、明治近代の野蛮の一つである「廃仏毀釈」によって、多くの仏教関連の信仰対象が破壊、破棄されたのだろう。

辛くもというか、幸いというか、村人によって守られ伝えられたものが、展示されていた。

国の重文である「銅鉢」、県の重文「木造文殊菩薩騎獅像」などが広く紹介されている。

それらについては、置いておき、ボクには冒頭二作、不思議な木造が印象に残った。


鎌倉時代の「木造禽獣像」。

熊野神社の使い「月の精」である「兎」であるかもしれないと。

ころっとした形がとてもいい。

次のは、ボクには何だかわからない、もしかすると、竜の頭?

ともあれ、ボクには魅力的。

素朴な信仰心の手触りようなものが、伝わってくる。

どこのどなたが作られたものか。

それをうち捨てずにおいた皆さんもたいしたものだ。


こんなのもあった、ガラスが反射してちょっと見にくい。

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愉快。











by ribondou55 | 2018-09-25 09:56 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 都心へ通う必要から、お得な「青春十八きっぷ」を購入したが、二日分しか使用しなかった。

 ので、残りきっぷを消化する第一日目、吾妻線に乗って、万座鹿沢口下車した。

 日本のポンペイなどとも云われる

天明の浅間噴火により埋没したという鎌原(群馬県嬬恋村)を訪ねた。

 鎌原は、天明3年(1783)7月8日の浅間の大噴火によって引き起こされた土石流によって、

崩壊埋没した。

 その際、かろうじて鎌原観音堂の階段をかけのぼり、生き延びることができた人が93名、

逃げ遅れて亡くなった人は477名。

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 観音堂への参道、手前の朱塗りの橋の下へは、発掘された埋没階段が続いている、

その埋没部分に老若二人の女性の遺骨が這い上がるような姿勢で発掘され、

その発掘当時の画像から、見るものは衝撃をうける。

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 さて、この災厄と後の復興について、「浅間山噴火大和讃」はこのように伝えている。


     帰命頂礼鎌原の
     月の七日の念仏を
     由来を委しく尋ぬれば
     天明三年卯の年の
     四月初日となりければ
     日本に名高き浅間山
     俄かに鳴動初まりて
     七月二日は鳴り強く
     夫れより日増しに鳴りひびき
     砂石をとばす恐ろしさ
     ついに八日の巳の刻に
     天地も崩るるばかりにて
     噴火と共に押し出し
     吾妻川辺銚子まで
     三十二ヶ村押通し
     家数は五百三十余
     人間一千三百余
     村村あまたある中で
     一のあわれは鎌原よ
     人畜田畑家屋まで
     皆泥海の下となり
     牛馬の数を数うれば
     一百六十五頭なり
     人間数を数うれば
     老若男女諸共に
     四百七十七人が
     十万億土へ誘われて
     夫に別れ子に別れ
     あやめもわからぬ死出の旅
     残りの人数九十三
     悲しみさけぶあわれさよ
     観音堂にと集まりて
     七日七夜のその間
     呑まず食わずに泣きあかす
     南無や大悲の観世音
     助け給えと一心に
     念じ上げたる甲斐ありて
     結ぶ縁もつき果てず
     隣村有志の情けにて
     妻なき人の妻となり
     主なき人の主となり
     細き煙を営みて
     泣く泣く月日は送れども
     夜毎夜毎の泣き声は
     魂魄子の土に止まりて
     子供は親を慕いしか
     親は子故に迷いしか
     悲鳴の声の恐ろしさ
     毎夜毎夜のことなれば
     花のお江戸の御本山
     東叡山に哀訴して
     聖の来迎願いける
     数多の僧侶を従えて
     程なく聖も着き給い
     施が鬼の段を設ければ
     残りの人々集まりて
     皆諸共に合掌し
     六字の名号唱うれば
     聖は数珠を爪ぐりて
     御経読誦を成し給う
     念仏施我鬼の供養にて
     魂魄無明の闇も晴れ
     弥陀の浄土へ導かれ
     蓮のうてなに招かれて
     心のはちすも開かれて
     泣き声止みしも不思議なり
     哀れ忘れぬその為に
     今ぞ七日の念仏は
     末世に伝わる供養なり
     慎み深く唱うべし
     南無阿弥陀仏
     明治初年
     南無阿弥陀仏
      (萩原鎌原司郎補正 滝沢対吉原作 1982 )・・・赤は泡六堂に責


 平日であったせいか、観音堂を訪れる人はまばらで、閑散としていた。

 今は、一つの観光資源であるのが、

どのような形であれ、天明の浅間大噴火では歴史上希有な大被害を祖先らは被った、その史跡である。

 とはいえ、本当に閑散としていた。

 側の嬬恋村の資料館は、まことに凡庸な展示で、アレで何を後世に伝えようとしてるのか?

 観光資源でよい、魅力ある観光資源にして集客し、長く語り伝えよ、そう思った。

 つまり、世間に役立つ金儲けをしてくれればいいのだ。

このような記憶でさえ、観光地化する以外に生き続けさせることがはできない。

 忘れやすい、このことはつい先だっての福島の原発事故ですら、言わずもがな。


 南無観世音菩薩。

 南無観世音菩薩。















by ribondou55 | 2017-09-06 15:24 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 さて、もう今日はお盆の最中、我が家も昨夕、ご先祖様をお迎えした。

 すでに会津に出かけたのは.2週間以上前のことになってしまった。

 であるから、ボクの脳みそでは、もう大方の記憶が消えている。

 風前の灯火のような思い出を書き留めておこう。


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 さて、バスツワーは、お蕎麦の昼飯を終えて、サンダル履きのガイドさんに引率されて恵隆寺に向かった。※「サンダル履き」、これ告げ口、嫌みではありません。このゆるーい感じが、会津らしくてよろしいと、いうこと。

 寺の歴史によれば、本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。
みなさん、ご覧になれば必ず驚きますよ!

 「会津六詣出」http://www.aizu-reichi.gr.jp/tatiki/ というとても親切この上ない柳津町地域振興課によるHPから拝借した。

 実際、このHPの表現は、大げさなものではない。

 びっくりである。

 見学の折、ご法事と重なったために、失礼ながらご本尊のお参りは、仏さんの足下から見上げる体になった。

 一木造り、巨大である。
 
 ちなみに鎌倉・長谷寺の十一面観音の身の丈は9.18メートルである。

 そのご本尊を足下から見上げるのだが、圧巻は三十体の脇侍が居並ぶ威容である。

 これも、接近して見上げるので、実は全貌を見渡すことができない。

 ああもどかしい。

 ということで、次は如法寺へ。

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 ここで、こんな愉しげに説教なさるお坊さんにはじめてお会いした。

 奈良時代、天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫された際、とある貧しい農家に宿をとられました。行基菩薩は、子に恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲嘆にくれる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになられました。
観音様の霊験は著しく、自ら鳴子の網をお引きになり、鳥や獣を追わせられたところ、その一家は豊作に恵まれ、子宝を授かり、皆幸福な人生を全うしたと伝えられています。
やがて西方極楽浄土に安楽住生が叶ったことが広まり、人々は「鳥追観音」又は「ころり観音」と呼び、多くの老若男女の信仰を集めるようになりました。
時代は移り、大同二年(807年)、徳一大師は、坂上田村麻呂公の帰依を受けて、金剛山如法寺を創建し、御本尊に行基御作と伝えられる聖観音像を奉安、胎内仏に「鳥追観音」を入仏秘されました。
御堂は、慶長十八年に再建されたものですが、その構造は東西向拝口というもので、東口から入り、参拝したら戻らずに西口から出るようになっており、全国でも珍しい構造の観音堂です。これは観音様の導きで人生を全うし、やがて西方浄土へ安楽往生が叶うという鳥追観音の御誓願を示しています。観音様に祈念して、「身代わりなで仏」をなで、肌守りを念持すれば、心願成就すると信仰されています。開創以来千二百年、「鳥追観音」は会津西方浄土の霊場、会津三十三観音番外二世安楽結願所、会津ころり三観音霊場のひとつとして、その広大無辺な慈悲を今に伝えています。([会津六詣出」より拝借。)


 お説教で、もっともリスペクト、強調されたのは、ボクのお目当ての徳一法師についてである。

 その内容は、如法寺公式HPhttp://www.torioi.com/rekishi.htmlを見よ!



 実は当日のツワー参加者は、たったの四名であった。

 にもかかわらず若いお坊さんは声をからしてお話下さり、締めにはご祈祷までシテくださった。

 本当をいうと、どんなありがたいお説教であったか内容は忘れた、ただケラケラと笑わせて頂いた。

 聴いていて、心が柔らかくなった、愉快になった、たとえコロリと逝かなくても、ありがたいではないか。

 ありがたいことだ。

 ボクはこれまでいろいろな宗派、お寺で法話を聞かせて頂いてきたのだが、これほどに愉快なことはなかった。

 ありがたし。


 もう一つ、妙法寺では、御堂に左甚五郎作と伝えられている「隠れ三猿」がある。


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 この説明が、とってもいい。

 あのお坊さんのお母様が、これもお声を張り上げてユーモアたっぷりになさる。

 それも、会津弁で語られる。

 すばらしい。


 





by ribondou55 | 2017-08-14 17:33 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
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  「会津ころり三観音巡り」、バスガイドさんから初めて説明を受けたとき、思わず笑った。
  
  あいづ ころり さんかんのん とても語呂がいい。

  本当に、ころりといけそうである。

  立木観音(恵隆寺)、鳥追観音(如法寺)、中田観世音(弘安寺)の三霊場を指すのだそうだ。

  原始経典では、涅槃とは貧欲・瞋恚・愚痴の滅尽であると聴いている。

  観音経では、その貧欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)を淫欲・瞋恚・愚痴というのだが、それを三毒とし、観音経を信仰し正しく生きていけば、己の中の三毒を軽減できるというようなことが、説かれていたように記憶する。

  ボクは、この貧欲(トンヨク)を、観音経では「淫欲」と限定的にしているところが、好きだ。

  つまりは、会津三観音はその三毒から離脱するお導きをして頂けるということなのだろう。

  まことに、ありがたい。

  ボクは、煩悩まみれの糞ったれであることを、深く自覚している。

  そうであるから、涅槃なんてとんでもない希望を持つのは論外だが、できることなら、苦痛なくコロリと逝きたいというのは、ボクぐらいの年になると、本当に切実だ。

  

  バスツワーは、その内の立木観音から鳥追観音を巡るのだった。

  


  つづく。

by ribondou55 | 2017-08-10 10:34 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)
 もう忘れそうだから、書き留めておく。

 この夏のはじめ、会津に出かけた。

 空海をして、「徳一菩薩」とまでいわさしめた、お坊さんとはどんなお方か?

 どうやら伝記的な資料がほとんど残されておいでではないというので、せめて、そのゆかりの旧跡を少しばかりでも訪ねてみたいと、思ったのだ。

 
 旅の一日目は、エンヤラエンヤラ汗をかきながら、慧日寺に参った。

 二日目、無精を決め込んで、定期観光バスを予約しておいたのだ。

 ボクの旅の原則の一つは、公共交通機関を利用して、あとは徒歩、または、自転車としていたが、寄る年波には勝てない、いたしかたない選択であった。

 ※「日本遺産 仏都会津 ~巡礼を通して観た往時の会津文化を訪ねて~」という、とても格調高い、バスガイド付の規格である。

 結果的に云えば、ボクは大いに愉しかった、会津バスは、なかなかのものであった。

 昼食の蕎麦も美味かった、これはツワーに込みである。

 
 巡礼ツワー先ず一番目、「勝常寺」。

 ボクはこの薬師如来様と両脇の日光・月光菩薩は、「みちのくの仏像」展(上野・トーハク)で観ているはずであるのだが、物忘れのみ超人的なため、印象すら忘れてしまっていた。 ※「勝常寺」ついては、ページ下のメモに(福島県湯川村の公式サイト)からお借りしたものが、貼り付けてある。

 だから、再会にして初対面であった。(奇妙な画像で失礼)



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 この彫刻分野では東北で初めての仏像として国宝指定された薬師如来座像に改めてみると、実に堂々とした体躯で、意思力に満ちた表情をされている。

 このパワーフルな感じが、厳しい自然に向き合って生きて行く会津の人々の心を打ったに違いないことがわかる。

 日本では北方に多い春楡の一木造りであるという。

 光背も立派なものだ。

 都びた表現もあり、徳一法師が関わったという説もある。

 もし、都から仏師を招いたのなら、そのスポンサーはいかなる人々だったのか。


 さて、その徳一法師の座像がこの薬師三尊の奧で睨みをきかせておいでであった。

 実は、この徳一法師のお姿を観たいと思ったのが、会津に出かけてみようと思った動機のひとつだった。

 勝常寺では撮影できなかったので、これは、慧日寺の展示資料を撮ったものだが、なんとも、迫力のあるお姿ではないか。

 
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 デフォルメされることで、一層リアルさを増すことがあるのは、だれでも知っている。

 宝物殿の薄か暗がりのなかで、このぎょろりと一瞥されたような気がした。

 いくつになっても肝の据わらない己を、恥じた。(つづく)





 
 


More 勝常寺のこと、定期観光バスのこと。
by ribondou55 | 2017-08-08 10:21 | ご近所巡礼記 | Trackback | Comments(0)

水面を滑りまわって世を過ごし、その上、空を飛ぶ羽も持っているあめんぼは、老蛙の憧れだ。


by 泡六堂