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カテゴリ:還暦シネマ( 169 )

 『牡蠣工場』(監督・想田和弘、2016年)を観た。

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 映画comの解説を借用する。

 「選挙」「精神」の想田和弘監督が、岡山県の牡蠣工場で働く人々の姿を記録したドキュメンタリー。ナレーションやBGMなどを排した想田監督独自のドキュメンタリー手法「観察映画」の第6弾として製作された。瀬戸内海に面した岡山県牛窓。かつては20軒近くあった牡蠣工場も過疎化などにより、今では6軒に減ってしまった。宮城県南三陸町で牡蠣工場を営んでいた渡邊さんは、東日本大震災で自身の工場が壊滅的な被害を受け、牛窓の地に移住し工場を継ぐこととなった。労働力不足のため、渡邊さんの工場でも中国からの労働者を雇い始めたが、言葉や文化の違いによるコミュニケーションの難しさに直面する。隣の工場では、早くも国に帰る脱落者が出た。牛窓という小さな町の日常から、グローバル化、少子高齢化、過疎化、労働問題、移民問題、さらに震災の影響など、日本が抱えるさまざまな問題が浮かび上がる。


 そういうことである。

 ボクらは、さりげなく過ごしている日常が実はさまざまな問題に浸食され、変えられ、揺さぶられているということに、自覚的でない。

 いつものように、観客はスクリーンを見続けるだけの作品である。

 でも、ちょっと今回は、「私」が垣間見えるか?

 ともあれ、牛窓という小さな港町とそこで営まれる牡蠣剥きの工場に起きていることは、身を凝らし耳をすませば、ボクの住む北関東にも、もうしばらく以前からあったぞと、いえば確かに見えていたことである。

 その問題の一つ一つをつまみ上げようとすると、芋づるのようにずるずるとあれもこれもと関わり合い絡み合った諸々の問題が引きずりだされてくる。

 もう、お手上げだ、そんな気分になる。

 ひたひたと寄せてくるあれやこれやは、ボクらの日常の全局面を変質させていく。

 なくしてもよいもの、なくしてならないもの、うけいれてよいもの、断固拒否を貫くべきもの、・・・、平穏に喰い、睡り、排泄できる日常をどう守ってゆけるか、考えよう。



 
by ribondou55 | 2016-05-20 23:26 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

『最愛の子』を観て。

 『最愛の子』(監督・陳 可辛〈ピーター・チャン)、2014年)を観た。

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 2009年7月。中国・深センの下町で寂れたネットカフェを経営するティエン(ホアン・ボー)は3歳の息子ポンポンと二人暮らし。離婚した元妻ジュアン(ハオ・レイ)は、週に一度だけポンポンと一緒に過ごしていた。ある日、近所の子どもたちと遊びに出かけたポンポンは、ジョアンの車が通りすぎたことに気付きあとを追いかけるが、車を見失ったポンポンを何者かが連れ去ってしまう。夜になっても帰ってこない息子を心配したティエンは警察に通報。だが失踪後24時間は事件として扱えないという。自力で捜そうと駅へ向かうがポンポンは見つからず、その後訪れた警察署でティエンは防犯カメラの映像に男がポンポンを抱いて連れ去る姿を目にする。その日からティエンとジュアンの息子捜しが始まった。インターネットで情報提供を呼びかけるが、報奨金目当ての詐欺かいたずら電話ばかりが掛かってくる。罪の意識と後悔に苛まれながら二人はポンポンを捜し続けるのだった……。失踪から3年が経った2012年の夏。ティエンの携帯にポンポンと見られる男の子が安徽省にいるという着信が入る。深センから遠く離れた安徽省の農村を訪れたティエンとジュアンは遂に息子を見つけ出すが、6歳になったポンポンは両親である二人を全く覚えていなかった。ポンポンが母ちゃんと慕うのは、ホンチン(ヴィッキー・チャオ)という育ての親。ホンチンは「自分は不妊症で子どもが産めず、夫が深センの女に産ませて3年前に連れてきた」と主張するが、実際は一年前に死んだ彼女の夫が3歳のポンポンを誘拐し安徽省に連れてきたのだった。初めて知らされるその事実にホンチンは困惑するばかりであった……。半年後。ティエンとジュアンは、いまだに「家に帰りたい」と言うポンポンの愛情を何とかして取り戻そうと日々心を砕いていた。そんな中、ホンチンもまた、子を奪われた母として我が子を捜しに深センへと向かっていた……。


 Movie Walker から、ストーリの紹介をお借りする。

 複雑なドラマなのだ。

 監督は、ことの奧深くまで踏み込んで、被害者と加害者が、「最愛の子を」奪い合う過程で、共に酷く傷んでゆくありさまをよく描いている。

 我が子は、最愛の存在である、執着してもしてもしきれない。

 この映画の見所は、誘拐された両親(今は離婚していて、妻は再婚している)が子どもを奪還するまで苦闘もさることながら、誘拐犯の妻が、子どもが連れ戻された後の、いはば「育ての母」の喪失感にまでストーリーを繋げてゆくことのある。

 つまり、そこに垣間見えるのが、めざましい経済成長の中での、都市と農村の格差であり、金に飲み込まれてゆがんでゆく価値観であり、モラルの崩壊であり、家庭の変容であり、・・・、まあ、何でも云えるのだ。

 そのどれもが、ボクの国でもかつて起きていて、そのなれの果てが、「現在」である。

 勿論、誘拐事件が日本でもあるのだが、この映画から見えてくるほどの頻度で起きているわけでない。

 誘拐した子どもを売買する、そんなことも考えられない。

 しかし、金がすべての世の中であることは、この国も同じだ。

 ともあれ、子は最愛の存在であることは、確かだ。


 

 

 
by ribondou55 | 2016-05-13 12:03 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 午後から雨という予報であった、その通りに小雨が降り出してきたので、午後の畑仕事は止めにした。

 午前中、この間強い風が吹いていたのを嫌って、見送ってきた茄子と胡瓜の苗を植え付けた、それだけでも本日やるべきことは、やってしまったと、いうことにした。

 もともと、ボクは「晴耕雨読」という言葉も、生活パターンも、あまり好まない。

 晴れていても、怠け惚けて耕さず。雨が降れば、本を枕に目を閉じる。

 そこで、本日はというと・・・・。

 『秋日和』(監督・小津安二郎、1960年)のデジタルリマスター版をBS3からの録画で観た。

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 我が家のビデオデッキ大分古くなったモデルであるが、録画溜めの容量は、そこそこに備わっているので、録画しっぱなしの番組がいくつも眠っている、その中からの一作。

 画像は驚くほど美しい。

 このごろの画像処理技術は、大したものだと感心されられる。

 
 さて『秋日和』、楽しませてもらった。

 大人によるの大人のための人情コメディという感じがした。

 佐分利信・北竜二・中村伸郎が演じるオヤジトリオが、亡き親友の未亡人(原節子)への下心一杯に、年頃になった遺児(司葉子)の縁談を種にして、いいかげん余計なお節介をするという、人情味満載のお話。

 結果にはちょっと寂しいハッピーエンドと相成り候、という次第。

 オヤジトリオのジョークは、この頃の世情から言うと、実もふたもない下品なセクハラ・パワハラ的な発言だと感じるだろう。

 若い男女は必ず結婚すべし、そのためには近場にいる大人がきちんと世話をしなければならない、・・・、本当に余計なお節介。

 勿論、監督の中にはこういう「お節介」の根っこにある思想が、戦後のニホンのミンシュテキな人間関係を発展させていく上の大いなる障害になり得るという批評的な見方があったかもしれない、そういう「お節介」をコテンパに批判しきるドライにハッチャケた岡田茉莉子を登場させることで観客に暗示しているような。

 でも、ボクはこのオヤジトリオを大いに好ましく思う。

 それはこのトリオが、紛れもなく全員大人たちであって、大人の口で「人情」を語り合っている。

 トリオのそれぞれにとって永遠のマドンナである亡き親友の妻(原節子)へ寄せていた下心は、この騒動によって粉砕されてしまうという結果になるのだが、それもそれで、うれしくもおもしろいものだと、自らを客観できている。

 大人だ。

 なぜ、そんなことの感心するかというと、還暦をとうの昔に過ぎてなお、何時までもガキめいてばかりの自分を情けないと、常日頃思い知ることが多いからである。

 誰かさんのいう「人間の劣化」、我が身でいえば、全うに老いることすらムズカシイ、ということになる。

 小津映画を観るたびに、年を重ねた人間の味わいを教えられるのだ。






 

 
by ribondou55 | 2016-05-06 16:15 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 見逃していた『お盆の弟』(監督・大崎章、2015年)を、深谷でようやく観ることができた。

 それに、昨日までお彼岸。

 
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 渋川清彦の主演で崖っぷちの売れない映画監督が再起をはかる姿を、全編モノクロームの映像で描いたドラマ。数々の作品で助監督を務め、2005年の初監督作「キャッチボール屋」が第16回日本映画批評家大賞新人監督賞を受賞した、大崎章監督の10年ぶりとなる監督第2作。不惑を目前に妻子と別居中で、兄マサルの暮らす実家に戻ってシナリオ作りに励む売れない映画監督のタカシ。悪友の藤村を通して知り合った女性・涼子を気に入ったタカシは、涼子のような女性が兄と付き合ってくれれば安心だと考え、頻繁に会う機会を作っていたが、涼子はタカシに対して本気になってしまう。一方、妻からはついに離婚を切り出され、なんとか妻の気持ちをつなぎとめようと躍起になるタカシだったが、映画の企画はうまくいかず……。兄マサル役で光石研が共演。脚本は「キャッチボール屋」でも大崎監督とタッグを組んだ、「百円の恋」の足立紳。 映画comより拝借

 売れない映画監督マサルは、実家に帰ってガン手術を終えたばかりの兄の世話をしながら暮らしている。
 
 その実家は、群馬県の玉村町、玉村とは群馬県と埼玉県の県境、東に伊勢崎市、西に高崎市、北に前橋市、南には藤岡市、埼玉県に囲まれている、玉村町には日光例幣史街道が通り抜けている。

 まあ、全国的云えばまったくなんだかわからない、普通に田舎である。

 都会といえば,ご近所では高崎。

 マサルは同郷の藤村と組んで映画のシナリオを作っている。

 藤村は、すでに脚本家としての自分を見限って玉村で、まんじゅう屋を本業としている。

 映画は、その玉村、高崎周辺でロケをしている。

 ボクは、その玉村や高崎に弱冠の土地勘があるので、ロケ地の風物がたまらく面白い。

 藤村の店のメニューは焼きまんじゅうと焼きそばの二品であったように思う。

 焼きまんじゅうには、あんこ入りというのもあったが、ボクは好まない。

 焼きまんじゅうは、上州のこの辺りのソウルフードである。

 この手の店が,この周辺で点在する、玉村にほど近い太田市はボクのサイクリングエリアであるので、昼飯時にお世話になるのが、「助平屋」という大胆な屋号の焼きまんじゅう屋で、おいしい。

 配偶者へのお土産にも買うことがある。

 同じく太田なら,市街に元祖吞龍山田屋あり、店先で食べるとお茶も出してくれて、ちょっと一休みには具合よい。

 それに、マサルと藤村が絡むシーンでは、やや不明瞭ながら、上州訛りが観察できた。

 実は、映画のなかでこの訛りを聴くことができたのは、初めて。

 
 まあ、どうでもいい様なことばかり書いたが、映画そのものも、とてもよろしかった。

 見ようによれば、しんどいテーマを描いているのだが、観ていると、ほのぼのしてくる。

 人情たっぷりの作品である。

 渋川清彦・光石研・岡田浩暉・河井青葉・渡辺真起子・柳田衣里佳、それぞれがほんとうに自然に演技している。

 監督の手腕だろうし、脚本の足立紳もいい。

 モノクロームの雰囲気もよし。

 云うなれば、映画の「品」が高い、そうおもった。

 きもちのよさは、その気取りのなさから発している。

 これは、易しそうで、実はたいへんむずかしいものだと、思う。





 
 

More 焼きまんじゅう
by ribondou55 | 2016-03-23 23:40 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

『凶悪』を観てみた

 『凶悪』(監督・白石和彌、2013年)を、レンタルDVDで、この頃になって観た。

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 死刑囚の告発をもとに、雑誌ジャーナリストが未解決の殺人事件を暴いていく過程をつづったベストセラーノンフィクション「凶悪 ある死刑囚の告発」(新潮45編集部編)を映画化。取材のため東京拘置所でヤクザの死刑囚・須藤と面会した雑誌ジャーナリストの藤井は、須藤が死刑判決を受けた事件のほかに、3つの殺人に関与しており、そのすべてに「先生」と呼ばれる首謀者がいるという告白を受ける。須藤は「先生」がのうのうと生きていることが許せず、藤井に「先生」の存在を記事にして世に暴くよう依頼。藤井が調査を進めると、やがて恐るべき凶悪事件の真相が明らかになっていく。ジャーナリストとしての使命感と狂気の間で揺れ動く藤井役を山田孝之、死刑囚・須藤をピエール瀧が演じ、「先生」役でリリー・フランキーが初の悪役に挑む。故・若松孝二監督に師事した白石和彌がメガホンをとった。 映画comより拝借

 公開当時、評判の高い作品であった。

 多くの感想は、リリー・フランキーとピエール瀧の演技が、真に迫って怖すぎると、云うようなものだった。

 ボクもこの作品がずっと気なっていた理由も、その二人の凶悪ぶりが見たかったからだった。

 今や、リリー・フランキーか樹木希林かという感じの超売れっ「子」であって、作品ごとに、まるで妖怪のように変身する、そんな感じがする。

 そういう方向から見ると、期待にたがわなかった。

 だが、ひとつ気になったのが、真相を明らかにする週刊誌の記者藤井(山田孝之)が、どうも。

 この手のキャラを設定することなしには映画にならないのだろうが、ボクはもういい加減にしてほしいとおもうのだ。

 母親の介護をからめて、女房との関係に鬱屈している体のゴシップ記者が、これぞジャーナリストの使命とでもいう感じに真相解明へとのめりこんでゆくという構図は、よくある。

 その情熱の発する心的な分析が、個人的な家庭事情からの逃避であるとか、あるいは、彼の告発の根源にあるのが、正義の衣をまとった犯人への憎悪であって、最も切実に死刑を熱望しているのはいったい何者だ?なんて味付けは、・・・、陳腐だ。

 ボクとしては、リリーさんやピエールさんが、さらにさらに凶悪であった、というところが見たかった。

 

 
 

 
by ribondou55 | 2016-03-01 21:33 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 『サウルの息子』(監督・ネメシュ・ラースロー、2015年)を観た。

 2015年・第68回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したハンガリー映画。アウシュビッツ解放70周年を記念して製作され、強制収容所で死体処理に従事するユダヤ人のサウルが、息子の遺体を見つけ、ユダヤ教の教義に基づき葬ろうとする姿や、大量殺戮が行われていた収容所の実態を描いた。1944年10月、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所。ナチスにより、同胞であるユダヤ人の死体処理を行う特殊部隊ゾンダーコマンドに選抜されたハンガリー系ユダヤ人のサウル。ある日、ガス室で生き残った息子と思しき少年を発見したものの、少年はすぐにナチスによって処刑されてしまう。サウルは少年の遺体をなんとかして手厚く葬ろうとするが……。ハンガリーの名匠タル・ベーラに師事したネメシュ・ラースロー監督の長編デビュー作。 映画comより拝借

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 1944年10月の出来ことは,次のようなことであったという。

  1944年10月7日   アウシュビッツでのゾンダーコマンドの蜂起
 1944年の夏、アウシュビッツのガス室の使用は、44万人を超えるハンガリー系ユダヤ人の到着により増大します。この虐殺場所で働く囚人の特殊別働隊(ゾンダーコマンド)が増員され、ガス室での大量虐殺に対処しています。しかし、1944年の秋までに、この特殊別働隊の人数が再び減少します。ゾンダーコマンドの囚人は、自分たちも殺害されることを恐れ、反乱を起こし、逃亡することを計画します。この反乱の計画では、女性囚人の協力もあり、ゾンダーコマンドの囚人のため近くの工場の火薬を密かに入手します。1944年10月7日、ゾンダーコマンドの囚人たちは蜂起し、遺体焼却炉IVを爆破すると共に、親衛隊の護衛兵を何名か殺害します。この反乱は、収容所護衛兵によってすぐに鎮圧されます。ゾンダーコマンドの囚人は全員殺害されます。工場の火薬をゾンダーコマンドに提供した4人の女性は、収容所が解放される数週間前の1945年1月6日に縛り首にされます。 〈「ホロコースト:学生のための教育サイト」参照)


 『サウルの息子』は、この10月7日の蜂起とその前日6日の2日間に、サウルというひとりの男がどのように生きたか、そして,死んだかということを映し出す。

 カメラは,執拗にサウルひとりをクローズアップし続ける。

 ガス室で生き残りながらも、直ちに殺されてしまった少年を当たり前に葬るためラビを探しだし、埋葬しようと懸命に、あるいは、まるで憑かれたように、動き回る。

 もはや、蜂起にかかわる任務すら,彼にとっては最重要ではなくなる。

 カメラは、焦点を彼ひとりに当てて、はてしなく追いかける。

 裸にされ、ガス室に送り込まれ、焼かれてゆく人々の姿と,その殺戮に荷担させられているゾンダーコマンドの姿も、焦点からずれっぱなし、どこまでもボケてはっきりしない、ただあわただしい虐殺工場の躁音だけが鮮明である。

 まことにストイックな映像である。

 映し出すのは、サウルの「意思」そのもののようだ。

 死んだ少年をサウルは、自分の息子であると云うが、それが事実であるのかどうは、最期まで分からない。

 云うまでなく、それが事実であろうと、サウルの空想的な思い込みであろうと、どうでもかまわない。

 『息子』は、ただしくふるさとハンガリーのユダヤ人として葬られなければならないと、サウルは確信している。

 それだけのことである。

 人を「部品」とよんで処理する者等に対抗するには、人を『人』として悼み、祈り、土に返すという不変であるべき振る舞いを貫くこと、・・・・サウルの確信であろう。

 ボクラもサウルの息子を見たのだ。

 
 この作品は、ハンガリーから発信されている、日本からはどうか?

 さしあたりは、塚本監督の『野火』であろうか。




 

 

 
by ribondou55 | 2016-02-25 23:23 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
  『TOKYO TRIBE』(監督・園子温、2014年)をレンタルDVDで観た。

  あの、ラップ・ミュージックというのか、ヒップホップ・ミュージックというのか、分からないが、和製ラップの、あの手の饒舌なだけで、ほとんど無内容な腰砕けの歌詞は、うざくて、聴くに堪えないと、常日頃、感じてきた。

 ついでにいうと、あのファッション、平たく云えば、風体も虫が好かない。

 この映画は、そのくそばかばかしい、日本語ラップのミュージカルである。

 そう、ミュージカル、これも、いかがなものか。

 それでも観ておこうと思ったのは、監督が園子温であるからだ。

 見始めて10分、よっぽど、観るのをやめようと思ったのだが、それでも、この監督なら何とかするだろうとガマンしているうちに,キャストのひとりひとりがイヤに粒だって、見えてきた。

 
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 このポスターに顔を見せている役者たちが、っまあ、それぞれ勝手にはじけているではないか。

 もう、はちゃめちゃに混沌となりはてて空中分解するかと見えて、これが、なにかにコントロールされている。

 スートーリーは、馬鹿馬鹿しく単純だが、細部にはどうやら素っ頓狂な「神」が宿っている風。

 第一、「美術」が極上だ。

 いいねー。

 見終えてみると、ミュージュカルで成功、これをシリアスにやったら、重苦しくてたまらなくなったかもしれない。

 そうは云っても、ヒップホップが聴くに堪える音楽だとは、やっぱり思えなかった。
by ribondou55 | 2016-02-24 23:27 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

映画『ねじ式』

 『ねじ式』(監督・石井輝男、1998年)を、Huluで、観た。

 原作が、つげ義春の『ねじ式』であるのだから、ただならぬ作品になるのはいうまでもないが、監督がなんといっても、石井輝男だから、ことは更に、・・・。

 
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 売れない貸本漫画家の青年、ツベ(浅野忠信)が貧困と虚無感から逃れるように、あてもない放浪の旅に出る様子を描く。主人公のツベの足取りを追う放浪記的な形式を取っており、『ねじ式』や『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』など複数の作品を映像化したオムニバス作品である。
基本的に原作に忠実な作りになっており、『ねじ式』の街の看板や『もっきり屋の少女』の居酒屋内の貼り紙など、細部も丁寧に再現されている。
『やなぎ屋主人』の作中で言及される映画『網走番外地』の監督、石井輝男が自ら『やなぎ屋主人』を制作するという点でも話題になった。 ウィキより拝借

 それと、「松岡正剛の千夜千冊」は、水木しげるのこんな証言を紹介している。

  水木しげるによると、「つげさんはスケベで怠け者でしたね。でも品物はいいんです」である。スケベはきっと正直なせいで、怠け者はかなりズルイせいである。つげの持っている品物はどの“品物”のことかと思うが、これはむろんマンガ作品のことで、水木は『李さん一家』なんかがとくによかったと言う。
 つげ義春が調布の水木プロにいたころのことだった。それ以前、つげは白土三平のところにもいたが、1~2週間でギブアップした。厳しすぎたらしい。そこで水木プロに行った。その1967年のころ、水木の家から近いラーメン屋の2階の4畳半に下宿していたつげは、暖かい日は窓の下の小屋根に布団を干して、そこで荘子の昼寝をしていた。そんなことが何度もあった。
 このとき変な夢を見た。それが『ねじ式』である。


 そうです「夢」。

 この「夢」は、読者それぞれに対して、じつに多面的で、複雑な感慨を呼びさますイメージをふんだんに提供してくるので、その昔、ボクもイチコロでやられた。

 漫画に比べて、映画の方は「夢」を表現することが、ずっとムズカシイだろう。

 漫画の一コマ一コマは、時間的に途切れ、その一コマは、静止している。

 コマとコマの間に、いわば行間があって、そこは、・・・、ごまかしも効く。

 もちろん、映画にだって、カット割りがあるが、漫画ほどの「アソビ」はないように思うからだ。

 今度観て、清川虹子、とてもよかった。



 暖かくなってきたので、畑にでよう。






 

More ショウビタキ
by ribondou55 | 2016-02-17 09:35 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)
 ウィキのお世話になると、こうあった、長いが・・・・

 刑事ヴァランダー(けいじヴァランダー、原題:Wallander)は、スウェーデンの推理作家ヘニング・マンケルの警察小説「クルト・ヴァランダー」シリーズを原作とする、イギリスのBBCで放送されるケネス・ブラナー主演・製作総指揮の刑事ドラマのシリーズ。
第1シーズンはスウェーデンの制作会社イエローバード社[1]と、イギリスの制作会社レフト・バンク・ピクチャーズ、BBCスコットランドにより製作され、2008年11月から12月にかけてBBC Oneで放映された。「クルト・ヴァランダー」シリーズの英語での製作は本作が初である。イエローバード社は2006年にイギリスの会社と映像化に関する交渉を開始し、2007年に主演のケネス・ブラナーは原作者のマンケルと個人的に面会し、役作りに関して対談した。契約が結ばれ、2008年1月より『Sidetracked』(邦題:目くらましの道)、『Firewall』、『One Step Behind』(邦題:友の足跡)の撮影が開始された。チーフディレクターにはエミー賞受賞者のフィリップ・マーティンを、撮影監督にはアンソニー・ドッド・マントルを迎えた。撮影には映画撮影用高解像度デジタルカメラ「レッド・ワン」が使用された。
 撮影は2008年4月から7月まで、主人公ヴァランダー刑事の故郷でもあるスウェーデンのイースタで行われた。シリーズの予算は750万ポンドで、BBCのほか、放映権を獲得したドイツのARDとアメリカ合衆国のWGBHも一部を負担し、共同制作としてクレジットに追記された。批評家はおおむね好意的な評価を下した。第1シーズンの全3話は2008年11月30日・12月7日・12月14日にそれぞれ放送された。第2シリーズは2009年7月から10月に撮影され、2010年1月3日から放送された。BBCは本シリーズが「Inspector Morse」(モース警部シリーズの映像化)のような形で続編が製作されることを望んでいる。このシリーズで、主演のブラナーはブロードキャスティング・プレス・ギルドの主演男優賞を、英国アカデミー賞のテレビ部門で最優秀ドラマシリーズ賞を含む6部門を受賞した。


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 ボクは、Huluで観ている。現在は,シーズン1,2を配信している。

 とてもイイ。

 イギリス本国での高い評価は,十分にうなずける。

 ケネス・ブラナーは、さすがの人である。

 大人のためのドラマである。

 日本で云うと、ボクの感じでは、合田雄一郞をちょっと連想するが、かなりちがうかな。

 原作は、ヘニング・マンケル(Henning Georg Mankell、1948年2月3日 - 2015年10月5日)、スウェーデンの推理作家、児童文学作家の作品。スウェーデン南端の片田舎の町イースタの中年刑事、クルト・ヴァランダー (Kurt Wallander) を主人公とする警察小説シリーズ。35ヶ国の言語に翻訳され、すでに2,000万部以上を売上げる。日本では柳沢由実子の邦訳で創元推理文庫より出版されている。スウェーデン及びイギリスで「刑事ヴァランダー」のタイトルでテレビドラマ化された。とウィキにある、情報ありがとう。

 とすると、テレビドラマの背景に写りこんでいる美しい風景は、スウェーデンの田舎町なのか?いや、ちがうだろ、どちらにしろ、ボクがこのテレビドラマに、謂わばこのところはまっていたのは、その映像の美しさがまずあった。

 シーズン1の二話であったか、ヴァランダーは、「詩人の刑事さん」と彼がちょっと惹かれている女性からからかわれる。

 で、この「詩人の刑事」、そうなんだ、そういう人が案外、彼方此方にひっそり暮らしている。

 詩人の魂を持った詐欺師、バーテンダーも、タクシー運転手も、理容師、クズ紙交換業者、鳶、ウエイトレス、・・・・・、いじめられっ子、保健室の先生、建具屋さん、経理係、・・・・・・、そんなひとに出会った来たようにも思える。

 いづれも、困難の中に生きていた。

 だいたいは、優しげに笑っていたが、赤く目を腫らしているのを見たこともある。


 ヴァランダーは、ハードボイルドではない、やわな「男」である。

 







 
 
by ribondou55 | 2016-02-02 23:23 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

『ルンタ』を観た

 『ルンタ』(監督・池谷薫,2015年)を観た。

 
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 この映画で、チベットの現状へとわれわれを誘うのは、ブログ〈チベットNOW@ルンタ〉「ダラムサラ通信」の発信者、中原一博氏である(www.lung-ta.org)

 作品中で、ロプサン・ノルブというお爺さんが証言する。

 お爺さんは、80歳。セラ僧院の僧侶だったが、1959年中国がラサに侵攻したとき、銃を持ち戦った。激しい戦闘の中で負傷し、捕まった。そして、その後24年間監獄に入れられていた。1988年、再逮捕を逃れるためインドに亡命。現在ダラムサラの小さな部屋で1人暮らしをしている。足が悪くいつも杖をついている。

 中原氏とは古くから友人だという。

 そのロプサン・ノルブさんの証言の一部、ボクにとって感銘深いかった言葉が、ブログに起こされていたので、その部分を引用させて頂く。

 ー2009年以降、焼身という抗議の方法を取る人が増えていますが、焼身についてどう思われますか?

ノルブ:彼らはまさに国と民族のために焼身しています。彼らは熟考の結果あのような行動を選択したのです。自分の命を絶つことで、他人が苦しまないですむようにと、自分の命を国と民族のために役立てようと考えたわけです。そのように考えず例えば中国人を殺すなら、それはただの暴力です。中国人を殺すことはできます。5人や6人、銃がなくてもできます。でも、そのようなことをせず自分の命を投げ出し、国や民族のために役立ちますようにと祈りながら、死んでいるのです。ダライ・ラマ法王の長寿を祈りつつ死んでいるのです。それは暴力ではありません。世界の人たちにチベットの現状を訴えているのです。中国はチベットや新疆を侵略し、弾圧しています。今、中国はラサに自由があると言っていますが、自由なんてありません。ラサのパルコルの至る所に検問所があります。僧院の入り口には銃を持った部隊が立っています。ひどい時代なのです。人々はまるで囚人のようです。ラサは監獄同然ですよ。それでもチベット人たちは中国人に暴力を振るったりしないのです。それは観音菩薩であるダライ・ラマ法王の「他者を害してはならない」というお言葉に従っているからです。非暴力主義に従っているのです。ダライ・ラマ法王がそのようにおっしゃっていなかったら、青蔵鉄道はラサまで到達できなかったことでしょう。死んでもいい、殺されてもいい、すべての路線を破壊し尽くそうとしたでしょう。でも中国がこれから先も弾圧を続けたらどうなるか分からないと思います。法王が亡くなられた後はどうなるか分からないと思います。道路や橋や鉄道を破壊するというような暴力行為が始まるかもしれません。


More「ルンタ」とは。
by ribondou55 | 2016-01-29 23:25 | 還暦シネマ | Trackback | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。誤字誤記多し、恐縮。


by 泡六堂
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