「バエル」ということ(2)
2023年 02月 06日
承前
それはさておいて、石川啄木という26歳で夭折した歌人が残した歌は、自分の目にはすぐれてかっこよいのだ。
誰でも知っている『一握の砂』の冒頭。
我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
大海にむかひて一人
七八日
泣きなむとすと家を出きに
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
以下、続くのだがここまでとする。
かっこいいではないか。陳腐だお笑いだと感じる方は、これらの歌の模倣亜流を山ほど見聞きしてきたせいで、この啄木がオリジナルであると見直したらどうであろう。
さて、テレビのドラマの放映に最後に、「これはフィクションです。」とわざわざ断りのテロップが走るのは、事実であると思い違いする人が多いからだ。そういう意味でいうと、これらの歌を読んで、これらは啄木の実体験が詠まれていると思う人が少なくない、いや実は大多数ではなかろうか。しかし、これらは全部フィクションだと思う自分のような人は意外に少ないように思う。
啄木は早熟であったことはまったくそうで、そういう意味では、文学上では云うまでもなく、実生活であっても、すれっからしなのだ。そんな男が小島の磯で泣くことも、蟹と戯れることも、まずありえない、本当に無いのか、啄木本人の確かめたのか、いい加減なことをいうな!と、突っ込みをいれられたらあやまる他ないのだが。ここで啄木が読者に伝えたいのは、「ひとり悲しく落ち込む俺がいるのだ」というレベルのことだ。それを、言語表現として見映えよく分かりやすく読者に提示するためのテクニックが駆使されているのだと思う。
結果、啄木の歌の表現は、平明で、かつ鮮明なイメージをもって、率直なメッセージを読者に届けてくれる。とにかく、わかりやすくかっこよく、生身の人の声として、読者に伝わるように作られていて、それに成功している。啄木が国民的歌人として人気があって当然である。
たわむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩歩まず
自分の経験であるが、最晩年入院中の母をベッドから車いすに移そうと体を支えた時、この歌が頭に浮かんだ。いうまでもなく、そのまま何事ないように、車いすを押して病棟から中庭へと連れ出していったのだが、その車い椅子を押す間、その歌が頭なかで浮かんでは消えた。ここに歌われた「母」への愛着は自分ら凡庸な人間にとってはたやすく共感できる、そういう気持ちを代弁してくれる歌なのだ。
(続く)
by ribondou55
| 2023-02-06 11:37
| 所感
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