青銀杏雷禍をおのが過去として 岡本眸
2020年 09月 11日
ボクの散歩コースの神社のご神木は巨きな銀杏の木である。
おそらく樹齢も相当なもであろうと推察出来る巨きな木であるが、これにも落雷の痕がみてとれる。
どこか忘れたが、根方が大きな洞になって、子供一人二人なら身を隠せるぼどの、そんな樹を見たことがある。
巨樹が雷に撃たれるということは、よくあることだろう。
だが、幹の大半が、炎上して朽ちてしまっているのに、毅然として生き続ける場合も珍しいことではない。
この句の公孫樹もそんな一樹であろう。
雷禍では無く、戦禍であっても、洪水・津波であれ、それを乗り越えて行く樹の力というのは、たいそうなものだ。
それに、「禍」は忘れて救われるものでなくて、おのが過去として記憶し続けることこそ、次の「禍」への対処へ進むことが出来る。
そういうことであろう。
というようなことを書いてみたが、ボクの好みからいうと、この句はほどほどの感じがする。
俳句は、とにかく短い、その中に盛り込むには、あまり理屈っぽくないほうが好きだ。
ボクは、俳句の素人だから、勝手にいうのですが、・・・、まことに恐縮。
※
安倍氏の後釜はもう決まったというのは、動かしがたい。
それに、乗じて主にテレビのワイドショーであるが、
スガ候補へのヨイショぶりには、箍がはずれっぱしになってきた。
総裁選挙にこと寄せて、来る解散総選挙に向けて、マスコミが事前運動に一役買っている。
実のところ、自民一強が続くことを、一番願っているのが、NHK報道と民放各局としか思えない。
勿論、合流新党って、あれもあれでしかないのだが。
by ribondou55
| 2020-09-11 17:19
| この一首その一句
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