小津監督の『秋日和』、いまさらに原節子は美しかった。
2016年 05月 06日
午後から雨という予報であった、その通りに小雨が降り出してきたので、午後の畑仕事は止めにした。
午前中、この間強い風が吹いていたのを嫌って、見送ってきた茄子と胡瓜の苗を植え付けた、それだけでも本日やるべきことは、やってしまったと、いうことにした。
もともと、ボクは「晴耕雨読」という言葉も、生活パターンも、あまり好まない。
晴れていても、怠け惚けて耕さず。雨が降れば、本を枕に目を閉じる。
そこで、本日はというと・・・・。
『秋日和』(監督・小津安二郎、1960年)のデジタルリマスター版をBS3からの録画で観た。
我が家のビデオデッキ大分古くなったモデルであるが、録画溜めの容量は、そこそこに備わっているので、録画しっぱなしの番組がいくつも眠っている、その中からの一作。
画像は驚くほど美しい。
このごろの画像処理技術は、大したものだと感心されられる。
さて『秋日和』、楽しませてもらった。
大人によるの大人のための人情コメディという感じがした。
佐分利信・北竜二・中村伸郎が演じるオヤジトリオが、亡き親友の未亡人(原節子)への下心一杯に、年頃になった遺児(司葉子)の縁談を種にして、いいかげん余計なお節介をするという、人情味満載のお話。
結果にはちょっと寂しいハッピーエンドと相成り候、という次第。
オヤジトリオのジョークは、この頃の世情から言うと、実もふたもない下品なセクハラ・パワハラ的な発言だと感じるだろう。
若い男女は必ず結婚すべし、そのためには近場にいる大人がきちんと世話をしなければならない、・・・、本当に余計なお節介。
勿論、監督の中にはこういう「お節介」の根っこにある思想が、戦後のニホンのミンシュテキな人間関係を発展させていく上の大いなる障害になり得るという批評的な見方があったかもしれない、そういう「お節介」をコテンパに批判しきるドライにハッチャケた岡田茉莉子を登場させることで観客に暗示しているような。
でも、ボクはこのオヤジトリオを大いに好ましく思う。
それはこのトリオが、紛れもなく全員大人たちであって、大人の口で「人情」を語り合っている。
トリオのそれぞれにとって永遠のマドンナである亡き親友の妻(原節子)へ寄せていた下心は、この騒動によって粉砕されてしまうという結果になるのだが、それもそれで、うれしくもおもしろいものだと、自らを客観できている。
大人だ。
なぜ、そんなことの感心するかというと、還暦をとうの昔に過ぎてなお、何時までもガキめいてばかりの自分を情けないと、常日頃思い知ることが多いからである。
誰かさんのいう「人間の劣化」、我が身でいえば、全うに老いることすらムズカシイ、ということになる。
小津映画を観るたびに、年を重ねた人間の味わいを教えられるのだ。
午前中、この間強い風が吹いていたのを嫌って、見送ってきた茄子と胡瓜の苗を植え付けた、それだけでも本日やるべきことは、やってしまったと、いうことにした。
もともと、ボクは「晴耕雨読」という言葉も、生活パターンも、あまり好まない。
晴れていても、怠け惚けて耕さず。雨が降れば、本を枕に目を閉じる。
そこで、本日はというと・・・・。
『秋日和』(監督・小津安二郎、1960年)のデジタルリマスター版をBS3からの録画で観た。
我が家のビデオデッキ大分古くなったモデルであるが、録画溜めの容量は、そこそこに備わっているので、録画しっぱなしの番組がいくつも眠っている、その中からの一作。
画像は驚くほど美しい。
このごろの画像処理技術は、大したものだと感心されられる。
さて『秋日和』、楽しませてもらった。
大人によるの大人のための人情コメディという感じがした。
佐分利信・北竜二・中村伸郎が演じるオヤジトリオが、亡き親友の未亡人(原節子)への下心一杯に、年頃になった遺児(司葉子)の縁談を種にして、いいかげん余計なお節介をするという、人情味満載のお話。
結果にはちょっと寂しいハッピーエンドと相成り候、という次第。
オヤジトリオのジョークは、この頃の世情から言うと、実もふたもない下品なセクハラ・パワハラ的な発言だと感じるだろう。
若い男女は必ず結婚すべし、そのためには近場にいる大人がきちんと世話をしなければならない、・・・、本当に余計なお節介。
勿論、監督の中にはこういう「お節介」の根っこにある思想が、戦後のニホンのミンシュテキな人間関係を発展させていく上の大いなる障害になり得るという批評的な見方があったかもしれない、そういう「お節介」をコテンパに批判しきるドライにハッチャケた岡田茉莉子を登場させることで観客に暗示しているような。
でも、ボクはこのオヤジトリオを大いに好ましく思う。
それはこのトリオが、紛れもなく全員大人たちであって、大人の口で「人情」を語り合っている。
トリオのそれぞれにとって永遠のマドンナである亡き親友の妻(原節子)へ寄せていた下心は、この騒動によって粉砕されてしまうという結果になるのだが、それもそれで、うれしくもおもしろいものだと、自らを客観できている。
大人だ。
なぜ、そんなことの感心するかというと、還暦をとうの昔に過ぎてなお、何時までもガキめいてばかりの自分を情けないと、常日頃思い知ることが多いからである。
誰かさんのいう「人間の劣化」、我が身でいえば、全うに老いることすらムズカシイ、ということになる。
小津映画を観るたびに、年を重ねた人間の味わいを教えられるのだ。
by ribondou55
| 2016-05-06 16:15
| 還暦シネマ
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