ひとりぽっちでいること②・・今夜は十六夜、『あやしうこそものぐるほしけれ』とは?

 文字通りに『独り』でいるというには、ロビンソン・クルーソーのように、絶海の孤島に置き去りにされると、いうような極端な場合を除いて、現実性はあまりない。

 都会の真ん中で「孤独死」、このことにしても、それは多くの場合、周囲の無関心が引き起こしたものだろう。

 中には、その方の窮状を見て見ぬふりを決め込んだ人だって、いたかもしれない。

 結論を先に云えば、自分は、「ひとりぽっちだ」と、思えてくるのは、だいだいにおいて主観的認識でしかないのだ。
 
 っま、思い込みだ。

 今の世の中は、なんやかやと人民を管理する網の目が張り巡らされていて、そこからこぼれおちるのも、相当の実行力がいるのではなかろうか、そういう意味でいえば、酷寒の橋の下で幾夜も過ごすホームレス諸兄の皆さんの覚悟は如何程のものかと、首を垂れて推察致すのである。

 そういうことでいえば、ぼんくらのボクは、妄想の中での孤独者に過ぎないにちがいない。

 では、隠遁とか、隠棲とかいうのは、どうなのだろう。

 仏教だったか?林住期というのもあったな。

 いづれにしろ、家を捨てる、妻子を捨てる、もちろん仕事も名誉もそんなものポイっとして、ひとりになりきるのだ。

 でも、それとて世間様から隔絶したら生きてはいけない。

 人は、喰わずには生きることができないからだ。

 お釈迦さんだって、托鉢生活をした、出家者というのは、世間から尊敬されている物乞いである。

 そういうことでいえば、この頃のニッポンのお坊さんのほとんどは、出家者とはいえない。

 そんなこんな、ぐだぐだ考えると 、やっぱり「ひとりぽっち」というのは、想うことのレベルで生起する、心的な現象なのだ。

 ボクの好きな兼好法師の「徒然草」の序段にある、『あやしうこそものぐるほしけれ』、あれは、結構本気でひとりぽっち感に囚われていた時の本音を吐露しちまったのではないかと、思う。

 勿論、一日中机に向かって、墨をすりすりして、筆の先っぽの毛をちょこちょこ噛んだりしていると、頭の中に次から次へと、とりとめなく、身の毛もよだつ体験がフラッシュバックしたり、くらくらするほどのエロい妄想が湧いてきたりして、狂おしくなってくると、いうのだが、それはね、多分、この時の兼好法師が孤独であったということなんじゃないかと、ボクは勝手にそう思っている。

 (全然読み方が間違っているそんな意味じゃないよ、と物知りのお方はボクを嗤うだろう。ここはそんな心情表現じゃないよ、書いた文章が気違いじみたものになってしまった、そう謙遜していってるのだと。だがね、そんなんじゃつまらない。兼好法師が生きていた時代は、戦乱政変、地震凶作、大風大火、飢餓疫病、ひっきりなしに人が大量に死んでいったのじゃないか、こんなときエラソーに御託を並べている徒然の本文に書かれなかったアナーキーな真実に、追い込まれていったのじゃないか、それを、「あやしうこそ」といったのではないかと、・・。)

 兼好さんは、歌人だったし、っま、一流の文化人だったろうから、エロ話を書こうと筆を執るはずもなく、ちょっち、いいことを書きつけようと、十六夜の月を眺めつつ、頬づえついて考えていたのだろうが、そうは心静かにいてはいられなかったのだろう。

 平時には、これ以上の気楽さはないのだが、「ひとりぽっち」というのは、時に狂おしいくなることがあるものだ。

 否応なしに、狂おしくなることがある、それだけのことだ。

 もしかした、月に向かって、坊主頭が「わーーーーーー」っと一声叫んだかもしれない。

 よくあることだ。


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by ribondou55 | 2015-09-28 15:16 | よしなしごとあれこれ | Comments(0)

花より団子、団子より昼寝がよろしい「隠居蛙」の日常をポロリ。


by 泡六堂
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