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「桜見」巡礼・・御室から吉野へ

 配偶者の快復途上の一区切りにしておこうと、吉野の桜を一目見ようと出かけた。

 この10日、奈良に二泊の宿を決めてのんびり出かけた。

 京都で途中下車して御室仁和寺の御室桜に立ち寄ることにした。

 ねぶたさの春は御室の花よりぞ  蕪村

 昔から数ある都の桜の名所でもっとも遅く見頃を迎えるという。

 満開。

 見事なものであった。
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 ついでにお隣の竜安寺の石庭越しのしだれ桜も見ておこうと足を延ばしてみた。

 おお、なんとこれも見頃であった。


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 翌日、吉野へ。

 吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ   西行

 奥千本まで行ってみた。

 
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 日本人の桜見巡礼の地として、吉野山は「聖地」といえるかも知れない。

 吉野は、大海人皇子が壬申の乱を起こすまでの期間を過ごした地であった。天武朝・持統朝では、天武朝の興隆の記念的な土地として、吉野離宮への数多い行幸があり、そこで吉野讃歌と呼ばれる和歌が詠まれた。しかし平安朝に入り、都が京へ移ってからは、吉野は地理的にも都から隔たった遠い地となる。さらに、役小角によって金峯山が開かれ、吉野は修験道の本拠地となり、蔵王権現の神木として桜が修験者たちによって植樹され、吉野は桜の山となった。11世紀になると、上皇や貴族たちによる御嶽精進(みたけそうじ)がたびたび行われ、吉野を訪れることも増えるが、それはあくまでも、めったに人々が訪れられない地だったからこそ、この地を浄土と見て参詣したのである。

 そうした歴史的な経緯、そして信仰の山そのものということもあるのだが、「願はくは花の下にて春死なんその二月の望月のころ」と詠んだ通りに、文治6年(1190)2月16日に入滅したという事実は、同時代の人々にも大きな衝撃をもって受け止められたたという、その西行が愛してやまなかった吉野の桜は、日本人の心性をくすぐる力を今なお有しているように思える。

 で、ボク的には疲れた疲れたというコトか。

 であるが、「一目千本」、まことに盛りのころは心を奪われよう。

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 染井吉野ばかりを「桜」と慣れてしまった目にも山桜のすらっと高い梢は清らかにさえみえる。

 それに、なんとボクらは奥千本から西行庵へとゆく崖っぷちの細道で花びらかとまがう雪に降られた。

 雪が通り雨のようにさっと降って消えた。

 敵である頼朝を前にして、義経との別離を静御前は歌う, 

 
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき


そして、蔵王権現。

 念願が果たせた。





 

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by ribondou55 | 2013-04-13 23:14 | 咲いた咲いた何の花 | Trackback | Comments(0)

水面を滑りまわって世を過ごし、その上、空を飛ぶ羽も持っているあめんぼは、老蛙の憧れだ。


by 泡六堂